阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作 「思えば遠くへ」村山むら
「工藤か? 新坂さんが死んだ。葬式が明日、稲毛会館である」
大学同期の島から電話をもらい、飲み会の誘いかと思ったら、訃報だった。
「マジか」
「マジだ。行くか? 急だけど、俺は行くぞ」
「俺も行くよ、もちろん」
大学時代、俺は落語研究会にいて、毎日飲んだくれていた。部室で麻雀したり、うだうだしたりして日が暮れる。日が暮れれば、近所の落研御用達の小さな居酒屋に行く。
マスターに「また来たのか」とうんざりされるのはお約束で、黙っていても安いつまみと焼酎のボトルが出てくる。
落語はすたれていく一方だったが、俺は楽しかった。ほかの男女が都会的であることに血道を上げているというのに、俺らはゴキブリがいる居酒屋で、バカ話に必死になっていた。社会ではまったく通用しない価値観ではあるが、会話のすべてにきれいにオチをつけたものが落研では偉かった。あいつがおもしろい話をしたら今度は俺がもっと笑わしてやる。話がウケるヤツは頭も間もよくて尊敬された。
そんな俺たちをカウンターの一番端の席から眺め、飽きもせずニコニコ笑っていたのが常連の新坂さんだ。
当時で五十歳くらいだったから、今は七十代か。おもしろそうに俺らを眺めては、焼き鳥やモツ煮をおごってくれた。俺たちだけではない。俺たちの先輩もおごってもらっていたし、後輩たちもそうだ。
つまりは落研のパトロンだった。
「おめだぢほんとうにおもしれえなあ」
自分はお通しだけで安いポン酒をズルズルすすりながら、落研には盛大に金を遣ってくれた。何かの職人でそこそこ稼いでいる、家族はいない、青森出身、としか知らなかった。だが俺たちと新坂さんの関係はそれだけでじゅうぶんだった。酒が飲めて、笑ってくれる人がいる。毎日が楽しかった。
小さな葬式会館に長蛇の列。知った顔も多かったし、知らない若い連中も多かった。ほとんどが創設五十年の我が落研部員らしい。
「すげえな。何十年、おごってくれてたんだろうな」
そう言った島はすでに少しふらついている。新坂さんに会うのにしらふは失礼だといって、缶ビールを片手にやって来た。
同じように考える者が何人もいたらしく、赤い顔で昔話をそこここで咲かせている。葬式というより同窓会だ。
「ああ。現役の子も来てるから、少なくとも二十五年は、あの店でおごりつづけてたんだろう」
喪主は俺と同じ年代の男で、おそらくは遠い親戚だろう。広間を埋め尽くす人だかりにあきらかに動揺している。
「マスターが、新坂さんが1週間も店に来ないんで、心配で町内会かなんかに相談したら、布団の中で亡くなっているのが見つかって」
名前を思い出せない誰かが教えてくれた。
部屋のすみでは、現役部員らしい若い女の子たちが目を真っ赤にしている。今どき落研に入る若者がいるのかと思ったが、落語がテーマのドラマやアニメのヒットもあり、今でもそれなりに部員がいるという。
「俺たちも、あの頃の新坂さんとほとんど同い年かあ。ああは生きられんな」
島の言葉に、誰も彼もがうなずいた。
焼香をして座ると、喪主の挨拶があった。
「故人の親族はすでに他界しておりますので、わたくしが喪主をつとめさせていただいております。正直、故人とは長らく音信不通でありましたので、このようにたくさんの弔問をいただいたことに感謝とともに、驚くばかりでございます」
独居老人の葬式に、女子大生が来ているのだから驚くだろう。
「ま、いろいろな理由があったんだろな」
地元に帰れない理由がさ、と島はさびしそうにつぶやく。ふいに、遠い昔の、新坂さんの冗談がよみがえる。
「おら宇宙人なんだ。まだ星さ帰りたくねえから、こうやって隠れてんだ」
「なんで、帰りたくないんですか」
「そりゃ、おめだぢど酒飲んでらほうがおもしろいもの」
手のかからない飲み方をする新坂さんだったが、その日はぐでんぐでんに酔っぱらい、俺がアパートまで送るはめになった。なんでそんな話になったのかはわからない。
帰りたくないと言っている間に帰りづらくなり、帰る星も消えてしまった。それでも、死ぬ直前まで店でおごっていたのなら、さびしい晩年ではなかったのだろう。ああは生きられない、と俺は島の言葉をくり返した。