阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作 「月夜にて」嘉島ふみ市
大正九年。先の欧州大戦の勝利による、地盤隆起のような高揚感が日本全体を包み込み、西洋から吹き込んできたモダンの風が、明治の煉瓦色を過去へと置き去りにすると、人々は新しい物、新しい恋、新しい刺激を求め、漫ろ街に繰り出した。着物に洋花を刺繍した婦人達が、黒琥珀のパラソルをかざして街を闊歩すれば、ハイカラな香りで通りは満たされ、振り返ったその先では、近代国家へと踏み出した足音が、そこかしこから聞こえてくるような、そんな時代であった。
華族の名家である一条家の令嬢、洋子には密かに思いを寄せる人がいた。同い年の庭師の耕作である。
父である清次郎は一人娘の洋子を溺愛し、「男女七才にして、席を同じくせず」の言葉通り、悪い虫が寄ってこないよう俗世間からも隔離して、二十年間、大事に大事に育てた。しかし、子供が親の思った通りに育ってくれないのは、何時の時代も常である。あまつさえ、恋心などというものは、親がどうにかできる類のものではない。
洋子の想いは日々募っていった。しかし、どんなに想おうとも、使用人などとは触れるどころか会話すら許されない。せいぜい、窓から姿を眺めるだけである。そこで、ある日、洋子は清次郎に言った。
「お父様。私、自室に植物の鉢植えを置きたいのです」
清次郎は奇怪な事をと驚いたが、洋子が望むことに文句は言えなかった。すぐさま庭師の耕作に、松の鉢植えを洋子の部屋に持ってこさせるよう伝えた。
耕作は鉢植えを洋子の部屋に運んだ。必然、世話や手入れなど下賤なことは耕作の役目となる。そして、耕作が鉢植えの手入れをしている間だけだが、二人の会話の時間が生まれたのだった。
日が経ち、鉢植えが一つ増え二つ増え、西洋風の白い部屋がどんどん野暮ったくなるにつれ、二人の会話の時間は伸びていった。
そんな、ある日の事。その日、耕作は庭の手入れに手間取り、洋子の部屋の鉢植えの世話を始める頃には、もう日が暮れてしまっていた。
普段と同様の取り留めない会話の途中、洋子がふと夜空を見上げ、何気に口にする。
「庭師さん。ご覧になって。月がとても綺麗よ」
すると、いつも朗らかな耕作が急に渋い顔をした。
「お嬢様。その言葉は殿方に向かって仰られてはいけませんよ」
「あら、どうして」
「なんでも、英語の『I love you』を日本語に翻訳すると『月が綺麗ですね』となるそうです」
「それは何故なの」
「何故と聞かれましても、自分にも詳しいことは分かりかねますが。おそらくハイカラな学生たちが、そのような言葉遊びなどを思いついたのでしょう。『好いております』と言えぬような人が『月が綺麗ですね』と言い換えて、自らの想いを伝えるというような」
数秒の間の後、洋子の頬がカアッと紅潮する。
「まあ、私ったら、はしたない」
そう言って顔を真っ赤にしてうつむく洋子の姿に、耕作が思わず噴き出し、洋子も釣られて笑うと、二人はしばらく笑い合っていた。
そんな二人の小さな逢瀬も、突然終わりを告げる。洋子の結婚が決まったのだ。相手は先の大戦の、戦中、戦後の化学工業の発展に絡んでのし上がった、いわゆる成金と呼ばれる家の御曹司だった。それは洋子の望むべくもない、家同士の都合による結婚であった。
結婚が決まった後も、耕作による洋子の部屋の鉢植えの手入れは、変わらず続けられた。そして、一つ一つと増えていった鉢植えは、いつの間にか部屋いっぱいになっていた。
いよいよ明日洋子が嫁ぐという日も、耕作はいつもと変わらず鉢植えの手入れをしていた。日が暮れる中、椅子に座り沈痛な表情で、黙って俯いていたままの洋子を尻目に、固い表情の耕作が、無言で淡々と鉢植えを手入れしていく。
耕作が、出窓に置かれた最後の鉢植えの手入れを終えた時、突然その背中に洋子がすがり付き、涙声で絞り出すように言った。
「耕作さん。私、貴方の事が」
そこまでで途切れた洋子の言葉に、耕作はしばらく固まり、振り向かず窓の外を見上げる。
「お嬢様、ご覧なさい。星が、星が綺麗ですよ」
耕作が月と言ってくれなかった事の意味を察すると、洋子はその場に慚無く泣き崩れるのだった。