阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「帰ろう」三浦幸子
恋人との別れの一言。いったいなんて書けばいいのだろう。
「さようなら」ではよそよそしいし、「ばいばい」も軽すぎる。長々と別れの理由を書くのも私らしくない。
鉛筆を握りしめたまま隣の部屋をのぞいてみる。サトシは深い眠りの中だ。
しばらく考えていたが、結局「サヨナラ、リエ」と全部カナで書いた。
小さなバッグに着替えだけ詰めて、後ろ手に二年暮らしたドアをそっと閉めた。
夜明けの風は、ことのほか冷たい。
行く当てもないから、とりあえず田舎に帰ってみよう。
始発電車を待つために駅のベンチに座ろうとしたが、あまりの冷たさに飛び上がってしまった。小さな駅に突っ立っているのは私だけだった。
やがて電車が遠慮がちな音を立てて、ホームに入ってきた。
こんなに早い電車なのに、もう五~六人が乗っていた。仕事に行くのだろうか。恋人と別れてきたのは私くらいのものだろう。みんな無関心にスマホをいじっている。
遠ざかる景色をぼんやり見ていると、車窓にさっきまで暮らしていたアパートが見えた。
訳もなく胸が苦しくなる。サトシはまだ何も知らずに眠っているのだろうか。家を出てまだ三十分も経っていないのに、サトシが愛しく思い出された。
もう帰りたいと思う自分がいることに、自分で驚いた。
けんかばかりしていた二年だったが、思い出すのはなぜか優しいものばかりだ。きっとあの二年は幸せだったんだ。――今頃気づくなんて。
「戻ろうか」今ならまだ間に合うかもしれない。
迷っているあいだに電車が終点に着いた。人が行き交う流れのままに歩く。
弁当を買って、ふるさと行きの列車に乗った。発車までにはまだ時間がある。
弁当を広げた。小さな焼き魚と卵焼き。
サトシは、卵焼きは甘くないとだめだった。でも私のつくる卵焼きは甘くなかった。しょっぱかった。サトシがあまりにも文句を言うものだから、「もう二度と作らないから!」と言って、本当に作らなくなった。
「別にいいけどぉ。会社の弁当に入っているからぁ」そんな嫌みを言われて頭にきて、たまに作っていた弁当も作らなくなった。
ボタンの掛け違いってよく言うけど、私たちもそんなかんじだったかな。小さな事がどんどん積み重なってきて、お互いがお互いを許せなくなってきた。
昨日まで、そう、もう三日も口をきいていない。きっかけは何だっけ。そんなことも忘れるほど、たぶん小さな事だ。
弁当の卵焼きは甘かった。サトシなら嬉しそうに食べていただろう。私はどうして、あれほど頑なに卵に砂糖を入れなかったのだろう。ほんのひとさじ入れれば、こんな事には・・・・・・いや、卵だけじゃない。
お互いが、ほんの少し譲れば。ほんの少し相手の身になれば・・・・・・
もうよそう。愚痴をおかずに弁当を食べても、まずいだけだ。
駅員が、のんびりした声で発車を知らせた。あと二時間もすればふるさとだ。突然帰ったらみんなびっくりするだろうな。サトシのことも聞かれるかもしれない。なんと答えよう。
まあいいや、とりあえず帰ろう。
やがて列車は動き出した。
列車の音と共に、夜が明けてきた。家並みが途絶え山や田畑が広がる頃には、すっかり明るくなってきた。
ふるさとの見慣れた山が車窓に迫ってきた。同時にちらちらと輝くものが見えた。
「あれは風花というの、きれいでしょ」就職試験に出かける私を見送ってくれたとき、母がぽつんと言ってたっけ。
「ふーん」そっけない返事をしていたと思うが、風花というフレーズだけが、なぜか耳に残っていた。
窓におでこを付けて、流れる景色に負けまいと風花だけを見ていた。
電車が止まった。私は慌てて降りた。ふるさとの一つ手前の駅だった。
帰るのはふるさとではない。帰るべきはサトシのところなのだ。向かいのホームで、反対行きの列車を待った。
「サヨナラ」と書いたメモは、戸棚のモーニングカップの中。もしサトシが目覚めて部屋をうろうろしていても、まだ見つけてはいないだろう。
風花の事を教えてあげよう。そして、今度、一緒に見に来よう。甘い卵焼きの入ったお弁当を持って。