阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「ふっこし」矢野貴也
ばあちゃんが死んだ、母ちゃんがわざわざ小学校まで迎えにきた。給食を終えお腹がふくれた俺は、黒板に書かれた算数の問題をあきらめ、鼻下と上唇の間に鉛筆をはさみこみバランスをとって遊んでいた。てっきりそれが見つかって、吉岡先生に怒られたと思っていた。
新米の吉岡先生は群馬に来てまもなく、男のくせに淀みのない話し方がロボットみたいとクラスで馬鹿にされていた。姉ちゃんが言うには、東京では標準語があたり前で馬鹿にされるのは俺たちのほうらしい。
校長室まで連れていかれ、母ちゃんが泣きだしそうな顔して俺を見たとき、「これはやばいな」と心底おもった。母ちゃんは一言もしゃべらず手をつなぎ俺を引っ張る。さすがに小学四年生にもなると、母親と手をつなぐなんて恥ずかしすぎる。友達に見られやしないか、校門を出るまでヒヤヒヤしながら校舎を振り返っていた。
学校から家なんて近いもんで歩いたって十分とかからない。学校開始のギリギリまでいつもばあちゃんと朝の連続ドラマを観た。テレビの内容はどうでも良くて、ばあちゃんが笑い、その姿を見るのが好きだった。
通学路の木々は紅葉の終わりを告げるように降った初雪で白い彩をつけていた。母ちゃんの手は暖かいが、ばあちゃんの手袋が恋しい。左右で色が違うやつだ。片方をどこかに忘れてしまい、そのたび片方だけ新しいのを編んでくれた。おしゃれと女子から言われるようになって、ますます好きになった。
そんなことを考えていたから、玄関口に並べられた靴の多さに驚いた。近所のおばちゃん連中が何人も来ていて、よくこれだけ人が家に入ったなってくらいごった返していた。
東京にいるはずの姉ちゃんが真っ先に気づき、俺に抱きついた。「ばあちゃんが、ばあちゃんが……」後の言葉が続かなかった。
俺もやっと気がついた。ばあちゃんが死んだこと。母ちゃんがしゃべらなかった理由。
ばあちゃんはただ眠っていた。いつもの布団でのんびり眠っていた。「テレビが始まっちゃうよ」と声をかければ、「ありがとよ」と起きてきそうだった。
心筋梗塞だったらしい。なんだよそれ、しらねぇよ。通夜や葬儀で忙しくなるからなんて言われ、どうすればいい。ガキじゃないから死ぬってことぐらい知っている。父ちゃんだって死んだし、騒がしかったセミだって一匹も夏を越せず道に転がっていた。わかっているけど、あたりまえに進められていくことに我慢できなかった。
居心地が悪く家を出たいのに靴が見つからない。さっき脱ぎ捨てたばかりの靴を探していると、ひょっこり吉岡先生が玄関先に現れた。先生は俺の靴をすぐに見つけてくれた。
「少し歩くか」なんて言って外に連れ出す。家の裏にある土手に沿って歩いていると、ばあちゃんが心配して追いかけてきそうだった。散歩にでかけるたび「ゆっくり歩こう」と息を切らす。わざと走ったりして困らせた。空はいつだって今日みたいに晴れていた。
「おっ、風花だ」
いきなり顔を上げた先生が叫んでいた。
晴れあがった大空にチラつく雪たち、風に煽られまばらに飛来する。日差しが反射して雪のひとひらひとひらが、きらきら光り舞い降りてくる。雪と呼ぶにはあまりにも少なすぎて、指先に触れるころには消えてなくなる。運よく地面にたどり着けたとしても嘘みたいにたちまち乾いてなくなってしまう。
握ったこぶしを開くと、やっぱり手のひらには何も残っていなかった。見えているのに捕まえることができない。そばにいた先生が手をそっと重ねてきた。俺の手に負けないくらいその手は冷たかった。
「ふっこし」
ことばが通じなかったのか、先生が膝を曲げて覗き込んできた。
「どういう意味?」
爽やかにきいてきたもんだから教えてやる。
「あれは、ふっこし。風花なんかじゃない」
赤城山を越えて吹き降ろす雪。ばあちゃんが話してくれた。目を大きく開いた先生が、ふっこしを見ていた。そして何度も頷いた。
「先生の手、冷たいな」
「そうか」
つないだ手を放すことなく先生が笑った。
足元にはタンポポによく似た黄色い花、オニノゲシが咲いていた。「葉っぱにいっぱいトゲがあるやろ。鬼みたいやろ」ばあちゃんは嬉しそうに教えてくれた。
「そろそろ、戻ろうか」
先生が母ちゃんみたいに俺を引っ張っていく。土手を歩きながら俺は、手袋をどこにしまったのか、そのことばかり考えていた。