阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「夢現」七積ナツミ
ある晩に息苦しくて目が覚めると、体中にバラ色の発疹が出ていた。熱を計ると三十八度八分もあった。一人では病院に行く事もできないなぁ、とぼおっとした頭で考える。時計を見ると、夜中の三時を差していた。もっともこんな時間じゃ病院にも行けない。枕元で充電しているスマートフォンで「高熱 発疹」と検索してみる。出てくる画像が殆ど幼児のもので参考にならず、すぐに閉じた。ネット検索は存外に集中力を必要とする。
外では雪が降っていた。窓から覗くと暗い外の景色が一面、白い雪に覆われていた。部屋の中はしんと冷えている。灯油ストーブに火を点ける。丸いドーム型の電熱線が赤く燃える。
気がつくと暖まった部屋の中でうたた寝をしていた。時計は三時四十分を差している。台所の方で物音がした。ストーブの火を弱め毛布を被ったまま這うように匍匐前進で向かっていく。
「さっちゃん、何してるの?」
母だった。
「あ、お母さん。帰ってたの。びっくりした。私、ちょっと高い熱が出ちゃって、なんか、全身に発疹ができちゃって」
「え、大丈夫?どれどれ。あー、かざはなだぁ?」
「かざはな?かざはなっていうの?」
「ほら、見て。発疹が体中に散って赤い雪が降ってるみたいでしょ?山に積もった雪が風に飛ばされて町まで運ばれてくることを風花って言うけど、こういう発疹もそれになぞらえてかざはなって、言うんだよ。かざほろしとも言う」
「へー、さすがは看護師長」
「まあね?。発疹が全身に出てるからびっくりしたかもしれないけど大丈夫。ただの風邪だよ。抵抗力が弱って、菌に反応して発疹が出ちゃったんだね」
「そっか、ちょっと安心した。お母さん、今晩仕事早く上がれたんだね。」
「うん、夜勤代わってくれる人がいてね。本当はもっと早く帰れるはずだったんだけど、急患が立て込んじゃって。代わってもらったわりにはだいぶ遅くなっちゃった」
「そっか、おつかれさまでした。そしたら、私、休むね。お母さんいたら安心だ」
「うん、水分摂って、暖かくして寝なさいね。ストーブは消して、お布団たくさん掛けて。あ、ちょっと待って、これ」
お母さんは、ポカリスエットを薄めて温めたものを私に渡してくれた。冬にはいつも母が携帯して飲んでいるものだ。
「水分補給に」
「ありがとう」
「おやすみ」
「おやすみ」
朝起きると、熱は下がっていて、発疹も消えていた。枕元には飲み終えたポカリスエットの空のコップと、充電器に繋がれたスマートフォンが転がっている。カーテンを開けると、外は雪なんて全然降ってなくて、家中どこを探してもお母さんはいなかった。
ああ、まただな。と思う。母が亡くなってから六年が経つ。私はまだ、母がいた頃の日常から抜け出せずにいる。夢現(ゆめうつつ)の間(ま)に母の夢を見る。でも、それは、夢というにはあまりに現実の感覚が強く、また、夢の中で見たものが現実にはみ出している。例えば、ポカリスエットが入っていた空のコップのように。発疹の痕を擦りながら、「かざはな」と思う。これは、母が私に残した記憶なのか、ネット検索でただ単に目にした情報なのか。どこまでが夢でどこからが現実なのか。淋しさが込み上げて目が潤む。でももう私は、泣く事では何も解決できない事を十分に理解している。日常は人の気持ちを追い越して淡々と時を刻む。手遅れにならないうちに、私たちはその時間にある程度追いついて行かないとならない。自分自身の健全な生活のために。
頭を振っても特に問題なさそうだし、体温計も三十六度二分を指していたので、朝の支度を済ませ職場に向かう。テレビの中ではお天気お兄さんが「今朝は今年一番の冷え込みです」と言っていた。
外は気持ちよく晴れていた。芯から冷える寒さを感じたが、空気は澄んでいて爽やかだった。職場まで自転車を漕ぎながら、昨晩の事を考える。また私が、母が生きていた頃を夢に見た可能性と、死んだ母が、私に会いに来た可能性と。どちらもあり得るなと思う。どちらも、私にとって(もしかしたら死んだ母にとっても)今の時間を過ごしていくには必要な出来事だ。
マフラーが自転車の風にばたばた揺れて邪魔になる。自転車を停めてマフラーを巻き直す間、白い塵のようなものが視界に入った。よく見ると雪だった。手のひらに乗せたら一瞬で消えた。青く澄んだ空に飛んで来た雪。私はまた「風花」と、思った。