阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「雪の姉妹」瀧なつ子
姉さまが歩くと、風花が舞う。
それはそれは美しくて、同じ雪女の私でも見とれてしまうくらい。
ささめ姉さまは、その伝説に恥じぬ美女で、これまでたくさんの山に入った男たちの命を吸ってきた。
肌は陶器のようで、髪は青にも白にも銀色にも見え、冷たい目は一瞬で男を虜にして、そして凍えさせてしまう。
「やあ、こごめ。美人の姉さんは一緒じゃないのかい」
花も葉もない冬の山桜が、私に問う。
春になれば必ず美しさを取り戻す山桜に、醜女(しこめ)の私の想いは分かるまい。
重く垂れた瞼に、下膨れの顔。なびくことのない重くじっとりした髪。指先までぶよっとしていて短く、女のものとは思えない。
歩いたって、雪すら舞わない。
雪女のくせに男をたぶらかすこともできずに、この命は何のためにあるのだろうか。
今も人たちが畏れを抱くこの山で、終わることのない思念が今日も巡る。
そんなある日、狒々(ひひ)さまが久しぶりに妻を娶(めと)ると聞いた。
狒々さまは、この山の山神さまだ。今では山神さまがおられなくなった山も、数あると聞く。この山が護られているのは、狒々さまのおかげだ。
当然のように、ささめ姉さまが呼ばれた。
なのに、私にもついて来いと言う。
お供がいたほうが良いのは分かるが、美しい姉さまと、この醜い姿を見比べられるのは気が滅入る。
私たちでも滅多に近づかない頂き付近の洞窟に、忘れ去られた祭壇がある。
それを静かにくぐって、ささめ姉さまと私は狒々さまのもとへ赴いた。
狒々さまは、八尺もある大猿の姿をされている。ほぼ白くなった体毛に千年の年月を、人に似た面相からは叡智を感じざるを得ない。
年老いておられるのに、目だけははっきりと見開かれ、大きすぎる黒目は漆黒で光を宿さず、吸い込まれそうだ。
おののいて、姉さまから少し下がったところで跪(ひざまず)いた。
じっと、私たちを見られている気配だけが満ちた。
やがて、空気が震えた。
「もう二年、待とう」
それは声とも言えぬ声で、低くすぎて耳には聞こえぬのに、なぜかはっきりとことばが理解できた。
「二年経ったら、もう一度来い。ひとりで」
二年。どうして待たれるのだろう。
「こごめ」
姉さまに呼びかけられて、はっと顔を上げると、狒々さまが私だけを見据えておられた。
選ばれたのは私だった。
何が何だか分からぬまま、震えながら平伏して、姉さまと共に辞した。
「背筋を伸ばしなさい。こごめ」
帰り道、雪に沈む足元を見ていたら姉さまに叱られた。
「お前はなぜ、狒々さまに選ばれたのか分かっていますか」
姉さまの声には、選ばれなかった悔しさも惨めさも何もにじまない。
「それは……。姉さまは男たちの命を数多(あまた)吸い取ってこられました。だから人たちは、この山を今でも畏れています。姉さまが嫁がれては、そのお役目を果たす者がいなくなってしま――」
「こごめ」
姉さまは私のことばを遮った。
「私は、人たちに恐怖を与えることはできても、畏れを与えることはできません。それができるのは、山神さまだけです」
ささめ姉さまは、静かに私に歩み寄る。いつものように風花が、美しく舞う。
「お前には風が吹かない。雪も舞わない。目立たぬところで、物事をじっと見定めることができる。お前はいずれ、不動の心を持つことができるはず。そういう素地を持ったものでなければ、山神さまの妻とはなれない。そういう心も、美しいと、私は思います」
ささめ姉さまは、私の前まで来るとふうっと息を吹いた。
一瞬、ものすごい風と雪が舞い、私のほうに向かって来た。
そのまま私を包みこみそうになるが、私の前まで来ると雪は静かに足元に落ちる。
私には風が吹かない。
雪も舞わない。
姉さまは、踵を返して風花をまといながら再び歩き始めた。