阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作 「ワキ方の夢」ぼにぃぽりぃ
「ワキ方の本質は、耐えて許してなぐさめる世界です」
能楽の下掛宝生流ワキ方、人間国宝であられた宝生閑師は、常々そのように言っておられた。ワキ方としてぼくは、この言葉を胸に演じてきた。
能面と華麗な装束をつけて舞台中央に舞う主役のシテ方を、ワキは舞台下手のワキ柱に隠れるように片膝を立てながら、じっと見ている。演能のあいだ、ほとんどワキはその場所を動かない。
シテの大半はこの世の人ではない。神や鬼、精霊や幽霊。この世にあらざるものたちがワキの前にあらわれて、己のことを語り、願いを口にして、去ってゆく。ワキはそういうものが見える性質の、この世に生きている人である。人ではないシテの多くは、ワキの夢にあらわれる。主人公(シテ)は、ワキに訴えかけるためにあらわれ、謡い、舞うのである。
ワキ方として力をつけるにしたがって、ぼくは自分の夢に、人ではないものを見るようになっていた。
それらはいつも、うすぼんやりとあらわれる。黒っぽい、もしくは白っぽいもやがだんだんと形を成して目の前に立つ。あらわれたものたちは何かを語ったり見せたりして、目覚めたときには消えている。
神々しいものより禍々しいものを見ることの方が多かった。彼らが何を語ったのか見せたのか、覚醒とともにそれらはあわあわと宙に消えてゆき、ぼくの記憶には来たものの輪郭めいた印象だけが残るのである。
その日は暗いグレーの、もやだった。
いつものように半分は恐ろしく、半分は待ち望むような気持ちで見ていると、それは人間の造形となっていった。神や鬼のときのような圧迫は感じない。しかし心もとない人間の霊は時として、鬼神より恐ろしいこともある。
やがてそれは気恥ずかしいほど見知った姿かたちになった。
立ちあらわれたのは、ぼくだった。
梵鐘を打ったような、響きが多すぎる声で、あらわれたぼくは言葉を発した。まだあの世とこの世との差に慣れていない初心者にありがちな第一声である。ようやく適した波長をつかんだようで、ぼくはぼくの声で話しはじめた。鼓膜の内側から聞いているいつもの声とは違うので、何やらくすぐったいような気がしたが、彼の発しているのは録音で聞きおぼえのあるぼくの声に違いなかった。
ワキはシテの話をじっと聞き、耐えて許してなぐさめる。
そのようにできるのは、シテが他人だからである。あらわれたぼくを見るやいなや、ぼくは悟った。
一方、目の前のぼくは、まるで相手が自分だと気づいていないかのように、己のことを語りはじめた。ぼくはぼくの語るぼくの話を嘘臭く感じてならなかった。
ひとしきり語り終えても、ぼくはぼくの前から消えなかった。ぼくの顔を見つめたままぼくは、いかにも簡単なことのように、ぼくの命を要求した。
「なにしろ死んだのが突然だったものだから、心構えをしそこなった。ぼんやりして、肉体に多くのエネルギーを残したまま離れてしまった。だから成仏するにはあとすこし、力が足りないんだ。おまえの魂魄をくれ。ぼくがぼくを救うのは当然だろう」
ぬけぬけと、あらわれたぼくは口にした。
「どうせぼくは今夜、眠っているうちに亡くなるんだ。少なくとも、魂魄の魄は不要になる。これがワキ方としての最後の舞台。耐えて許してなぐさめる。それがワキの本分だろ」
「それはワキとシテとが別々のものだから成り立つんだ。きみはぼくと同じものだ。自分の魂魄で自らの救済を願うだなんて、矛盾している」
「今まで数えきれないほどのシテを救ってきたくせに、ぼくのことは救えないというのかい。いずれきっときみも、ぼくと同じことをするよ。だってきみはぼくなんだから」
命を取られる間際にあげた「ぼくはぼく自身をなぐさめるには、まだ力が足りない。ぼくにはぼくを救えない」という叫びは、目覚める前の浅い眠りに散った。
気がつくと、床に眠っているぼくの上にぼくは浮いていた。眼下に横たわるぼくには息がない。夢を見ていたような気もするが、突然の死に遮られておぼえていない。肉体の異変に飛び起きたら、こうなっていたのだ。
宙を漂いながら、成仏するにはあとわずかに力が足りないことが、おぼろげにわかる。ふと、師の言葉が心に浮かんだ。そうだ、今こそぼく自身が救われるときだ。
ぼくはほんのすこし時をさかのぼり、まだ生きて眠るぼくの夢へと入っていった。