阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作 「お嬢様の憂鬱」木村和央
「お帰りなさいませ、お嬢様」
彼は、私の執事、藤木と言います。物腰が柔らかく、気遣い上手な執事です。
「お帰りがいつもより遅かったので、心配致しました。何か問題でもございましたか?」
「ええ、ちょっと会社でトラブルがあって。でも何とかなったから大丈夫よ」
「さようでございましたか、大変でしたね。しかし、庶民の生活を勉強するとは言え、身体など壊さぬようお気を付けください」
「分かってるわ、ありがとう」
青薔薇館。世間からはそう呼ばれているお屋敷で、私は<お嬢様>として育てられました。最近は、庶民の生活を学ぶために家を出て、会社というところに勤めています。
「お嬢様、ディナーの準備が整いました。本日は、グリュイエールチーズスフレとオマール海老のピスク、鴨のコンフィをご用意致しました。デザートはガトーフロマージュと、バニラパンナコッタどちらにいたしましょう?」
「ガトーフロマージュにしようかな。あと紅茶もお願いね。フレーバーは藤木に任せるわ」
「かしこまりました。では、ご用意致します」
彼は、人並み外れた紅茶の知識を持っているということもあり、私はいつもオススメを頂くことにしています。
藤木は『執事』なので、もちろん私の世話は完璧に行いますが、それ以外にも、音楽やダンスなども心得ています。彼は本当によくできたものです。
「今日は、お嬢様のお身体を癒すために『バイカル』という紅茶をお作り致しました。ベルガモットの香りと、オレンジの果汁を加えたフレーバーになっております」
藤木がティーカップに紅茶を注ぐと、優しいシトラスの香りが部屋中に広がりました。紅茶の香りに包まれるこの瞬間が、私の至福なのです。
紅茶を飲み終えると、私はカップの底に花が描かれていることに気付きました。
「この花は何?」
私は何だか無性に気になり、藤木に尋ねました。
「これは、ダチュラという花でございます。花言葉は『偽りの魅力』です」
「偽りの魅力?なぜ、<偽り>なのかしら」
藤木は、何か意味ありげな視線を私に送りながらこう、答えます。
「ダチュラは、幻覚症状を引き起こす毒を持っているのです。この毒性を連想させて、花言葉にしたのでしょう」
「まぼろしを見てしまうのね」
などと、他愛もない雑談をしながら、私はこの生活がいつまでも続けばいいのに、という思いがこみ上げました。
執事がこうやって傍にいれば、庶民の生活にも耐えて生きていけるから。
「お嬢様?どうかなさいましたか?」
‥‥‥そう私は、お嬢様、お嬢様なの。
「そろそろ、お休みの時間だわ。今日も一日ご苦労様。お休みなさい」
そう言って、私は彼の首の後ろにある電源ボタンを切る。プツンと、音が鳴ると同時に私は夢から目覚める。
彼は、天才科学者が開発した人間型ロボット。お嬢様の世話をする執事という役割がプログラミングされている。見た目は、とあるモデルを参考に作ったようで、なかなかのイケメンである。言語処理や音声変換に関しても正常に行われている。
しかし、問題点も多いのが現状だ。発熱量が多いため、故障が絶えない。実際のところ、冷却装置は週に一回取り替える必要がある。維持費だけでもかなりの額になる。
だが、私はこの執事ロボットなしにこの世界を生きていくことは、もうできない。私が<幸せ>を感じることができる場所は、もうここしかないのだから。外の世界では、人の
人生に平気で文句をつけ、他人の悪口で盛り上がり、自分の価値観を押し付け合いながら生きている。
そんな生きにくい社会より、偽りの世界で生きる方がなんて幸せなことか。
もし、藤木が起きていたらきっとこう言うのだろう。「お嬢様は、そのような哀れな庶民と一緒にいる必要はございません。お嬢様はこの屋敷の大事な至宝なのですから」と。
残りの紅茶をポットからティーカップに注ぐとき、再びダチュラが目に止まった。そして、藤木のあの視線を思い出す。
「お嬢様ごっこも幻覚だ、って言いたかったのかしら?」