阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「黒い森」廣野聖
京の都に疫病が蔓延し、幼い皇子が床に臥して三晩になる。昼夜問わずの加持祈祷も一向に功を奏さず、熱にうなされ苦しげに唸るわが子の様に慄いた帝は、典薬頭を呼んで厳命した。
「悪夢を喰って生きる獏という物の怪が東の森におると聞いたが、其奴に皇子の悪夢を喰わせれば命がうつつに戻るかも知れぬ。明朝までに獏を捕らえてまいれ!」
帝の命を受け、一人の若者に白羽の矢が立った。医術を学ぶ四十人の医生の中にあって学力は最下位、身丈も低く正義感だけが取り柄のその若者は、なぜ自分がこの大役を任されたのかと首を傾げるばかりだった。
「よいかタジマ。決して獏の眼を見てはならぬ。眼が合えば最後、妖力で魂を吸い取られてしまう。心して行け」
若者は師の忠告をしかと胸に刻み、戸惑いのうちに東の森を目指した。
朱雀大路から四条大路、さらにその先まで、路頭には人の屍が累々と横たわっていた。犬や鳥に喰われたのか、腕足はちぎれて骨が露わになり、無残に引きずり出された臓腑には、無数の蛆の群れが蠢いていた。腐敗した屍の奇臭が鼻と口から忍び込み、タジマは激しく嘔吐した。
(災禍疫病は怨念の仕業といえども、これほどまでに多くの死人は見たことがない。加持祈祷も効かぬとなれば……わらわやみ(マラリヤ)か?)
タジマは怖気を震い、先を急いだ。
東の森に着いた頃、あたりはすでに深い闇に包まれていた。沓で坂を踏むたびにヌルリとした感触が足裏を這い、痛みが走る。水疱が潰れて皮が剥がれたのだろう。弓を杖に引きずる足で小さな祠の前にたどり着くと、一歩も動けなくなってしまった。
足裏ばかりか、頭も割れるように痛む。顔が火を噴いたように熱いかと思えば、体は氷を背負ったような悪寒に震え、タジマは堪えきれずその場にくずれ落ちた。
そのとき、黒い森がどうと唸りをあげ、強い風が吹いた。開けた木の間から射し入る月あかりが闇を払った刹那、タジマは巨木の根元に蹲る黒い塊を見た。
(あれは……獏か?)
きつく眼を閉じると、瞼の裏に焼きついた黒塊の残像がくっきりと姿をあらわした。艶やかな黒い毛に蔽われた厳のような体躯、長い鼻の両脇から天を突くように二本の鋭い牙が伸び、尾は鞭のようにしなりながら地を叩いている。
タジマは恐る恐る重い瞼を開いた。すでに月は木の間に隠れ、闇の中に二つの赤い火珠が妖しく燃えていた。それが獏の双眸だと気づき、はっと眼を逸らしたが遅かった。
(俺を捕らえに来たのか)
霞む意識の底に、太く嗄れた声が響いた。
「……動かぬ体では、もはや何もできぬ」
(俺に皇子の悪夢を喰わせたところで、命が助かるわけがなかろう。そもそも俺が喰っているのは悪夢などではない。目覚めた後まで見てはならぬ夢を喰っているのだ)
獏は牙を震わせてタジマに吠えかかった。
「我を殺すつもりか」
(ふん。自惚れるな。おまえの命など誰もあてにしておるものか)
獏のひと声に、タジマはすべてを得心した。できそこないの己が選ばれたのは、ただの厄介払いということか。見捨てられたのだと思うと、情けなさや怒りを覚えるより先に笑いが込みあげてきた。これからは人目を憚らず、自分が求めていた加持祈祷に頼らぬ医の道を歩むことができるのだ。
「悪夢を喰っても命が助からぬと言うなら、どうすれば疫病に苦しむ者を救えるか知っておろう。教えてくれ。それは主の肝(・)の(・)根(・)を煎じて服めばよいのか……そうなのだな!」
タジマは「許せ」と言うなり、力をふり絞って矢を射た。ヒュンという鋭い音が闇を裂き、地が割れんばかりの轟音とともに体が激しく揺れた。
爆音と硝煙に包まれた黒い森の中で、散兵壕に二人の兵士が蹲っていた。体は泥と死臭にまみれ、落ち窪んだ眼には、残命の淵をのぞき込んだような冥(くら)い光が宿っていた。
「人の命を救うどころか、自分がマラリアにやられるとは……軍医失格です。中将どの、どうかこれをお服みください。自分は最期まで軍医としての使命を全うしたくあります」
「自惚れるな、ここにはもう助かる命などない。だが、日本の将来には貴様が救わねばならぬ命がたくさんある。最後のキニーネは貴様が服め、田島少佐。生きて日本に帰れ!」
二人のすぐ脇で炸裂音が弾けた。宙に投げ出された田島は、壕の底から天に向かって見開かれた赤く燃える双眸を、悠遠に連なる夢の中にも見たような気がした。