阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「虫毒」福岡ななみ
妻のオケラが死んだ。結婚してちょうど、1年目を迎えようとした矢先の事であった。
「ああ、加奈子、どうして死んでしまったんだ……。初めての結婚記念日は一緒にお祝いしようって約束したのに」
妻の加奈子は非常に美しいオケラで、慎ましくびいびいと鳴く姿が愛らしく、また、下品な言い方をすれば、非常にそそる女であった。結婚に対して親から猛反対されたものの、全く後悔はしていない。
妻との出会いは二年前。どんな生き物とも結婚してよいという法律が制定され、世間が大騒ぎになっていた頃、そろそろ身を固めたいと思っていた時に偶然近所の畑の傍で飛んでいた姿に一目惚れして、つい捕まえてしまったのが出会いである。虫に恋するのは初めてだったため、久しぶりにオケラを見たから興奮しただけじゃないかとか、こんなに可愛いのだからもうお相手がいるのではないかとか、実は雄ではないかとか色々考えてしまい、知恵熱が出てしまうほど悩んだものだが、プラケースの中で小さく愛らしい足を一生懸命動かして土を掘っているのを見ている内にどうでもよくなってしまった。僕はオケラを好きになってしまった。これだけは絶対的な事実なのだから、いいではないか。そう思ったら居てもたってもいられず、彼女と出会ってからわずか2週間ほどで婚姻届を出した。
彼女との結婚生活は、今まで僕があまり恋人を作らなかったからかもしれないが、右も左もわからないことだらけであった。オケラが乾燥に弱いということを知らずに結婚して3日目で妻を干からびさせてしまった時は、今後いったいどうなることやらと頭を抱えたものだ。しかし、彼女のこちらを見つめる黒曜石のような瞳、黒褐色から薄い茶色に変わっていくグラデーションが魅惑的な身体、そして、小さい体躯を必死に動かす可愛らしい仕草が、僕を励ましてくれた。
結婚して半年ほど経って、どうしても子供が欲しくなった時期がある。虫との子作りは莫大なお金が掛かるため諦めていたのだが、加奈子の子供だけでも欲しいと思って、雄のオケラと加奈子を番わせようとした事があった。しかし、煩わしい鳴き声を上げて妻に求愛する姿を見ていると、心臓を火で炙られるような気持ちになって、我慢できなくなった僕は雄のオケラを踏み潰してしまったのだ。あの時の妻の何とも言えない表情と言ったら! 今はもっと穏やかな手段を使えばよかったと少々後悔している。
いつも忙しなく動いていた彼女は今、透明なケースの中で安らかにひっくり返っている。遺体が腐らないうちに葬式を行わねばならないだろう。彼女の亡骸を触ってみる。かさり。湿気の多いケースの中に居たはずなのに、不思議と妻の身体は乾いていた。こびり付いていた土を払って、掌の上に乗せると、ダンゴ虫のように縮こまった全身が露わになる。いつも触っていた筈なのに、緊張して手が震えてしまった。
「加奈子、ほんとうに死んだのか、加奈子……」
一滴の水が妻の身体に落ちていくのを見て、ようやく自分が泣いていることに気が付いた。妻との寿命差は覚悟していたはずだが、いざその時が訪れると、情けなくも涙を止められそうもなかった。このまま親や会社に訃報を伝えて、葬式を挙げたら、永遠の別れが訪れるのだろうか。耐えられそうもない。ずっと、加奈子の傍にいたい。どうすればいいのか。涙を止めることもせずに、必死に頭を悩ませていると、ふと、リビングにあるテーブルの上に置いてあった残飯と目があった。ぽつんと残された焼き魚が恨めしげにこちらを見ている。
「あの魚は、今、僕の身体の一部なんだよな……。血となり肉となり、僕の、いちぶに」
気が付いたら僕は妻の遺体を口の中に入れていた。妻の腕が引っ掛かって口内が切れたのか、少し血の味がしてお世辞にも美味しいとは思えなかったが、加奈子と僕が、コーヒーに溶ける砂糖のようにひとつになるような気がして、味の不快さを吹き飛ばすような強烈な多幸感が僕を覆い尽くしていた。丁寧に噛んで、砕けた妻を舌で転がすと、土と血と涙の味がより濃くなった気がして、嬉しかった。
妻の身体を隅々まで味わい尽くすように噛み続けて口内に欠片すら無くなる頃には、少し落ち着いて、涙も止まっていた。ぼうっとしながら窓の方を向くと、もうすっかり日は落ちているようであった。妻を食べてしまったからには、いつまでも落ち込んでばかりはいられない。今の僕は、加奈子の分も前を向いて生きていかねばならないという使命感に燃えていた。
「次はコオロギにしようかな」