阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「虫と色」伊原てん
ぼんやりとした意識の中、私は目を開けた。茶色い天井が視界に広がる。まだ眠い頭を懸命に起こそうと横を向いたとき、入り口のほうから薄っすらと、日の光が差し込んでいることに気が付いた。嫌な予感と共に、まどろんでいた意識が一気に覚醒する。慌てて周囲を見回すが、昨日夜遅くまで一緒に騒いでいたはずの同僚たちは、すでに仕事場へ向かった後だった。どうやら私だけ寝過ごしてしまったらしい。慌てて寝床から飛び起きる。
「誰かひとりくらい、起こしてくれてもいいじゃないか」
ぼやきながら、私は急いで外へ出た。一歩外に出ると直ぐに目が眩む。暖かな夏の日差しが草木の間からこぼれていた。わずかの間をおいて目が慣れると、すぐに太陽の位置を確認する。日の位置は既に高かった。あそこならまもなく昼に差し掛かろうか、という時間帯だろう。遅刻は確定として、問題はどう言い訳するかであった。顔をしかめながら、私はとにかく走ることにした。
しばらく通いなれた道を走っていると、私は道の向こう側に、男の子がしゃがみこんでいることに気が付いた。水色の服に黄色い帽子をかぶっているところを見ると、どうやらまだ幼稚園児のようだ。私はすぐさま足を止め、物がげに身をひそめた。チャンスだ、と心の中でつぶやき、思わずほくそ笑む。ほかの同僚たちには内緒にしているが、あれくらいの男の子が狙い目なのだ。昼過ぎから夕方であればなお好都合だったのだが、この際贅沢は言うまい。少なくとも、遅刻の理由と埋め合わせにしては十分すぎるほどだろう。あとはどのタイミングで仕掛けるか、だ。物陰からこっそりと顔を出し、視線を彼へと戻す。私が一人思案に耽っている間も、彼はその場に座り込んだままだった。お腹でも痛いのだろうかと思い、遠巻きに眺めていると、おもむろに彼が横を向く。彼は何やら一生懸命、手に持っているものを地面にかざしていた。目をよく凝らしてみると、どうやらそれは虫メガネのようだった。両親にでも買ってもらったのだろうか、目をキラキラさせながら辺りのものを手当たり次第に観察している。とても大きな石、木の棒、葉っぱなど、普段と違ったふうに見える事がよほど楽しいのか、次々に近づいては手に取り、いろんな角度からそれらを楽しそうに眺めていた。私にとって彼の集中力が他に注がれているのは好都合だ。今が好機とばかりに、彼の背後にこっそりと忍び寄っていく。しかし彼まであともう少し、といったところで嫌な予感が背筋を掠める。思わず足を止めたが、もう遅かった。周囲の草木がざわめく。突風が吹いたのだった。すると彼の手のひらにあった木の葉がひらりと舞い上がり、地面に落ちる。それを追いかけた彼の視線が、そのまま私を捉えてしまった。目と目が合う。ぎくりとしたのも束の間、彼は黙って私に虫メガネを近づけてきた。しまった。狙っていた事を気づかれてしまっただろうか。もし暴れられるようなことでもあれば、私は一巻の終わりだった。
「や、やぁ」
自分でもわかるほどカチコチになった笑みを顔に張り付けたまま、ぎこちなく挨拶をする。しかし、彼は私の声など聞こえていないのか、黙って私を見つめていた。虫メガネ越しに見る彼の眼はとてつもなく大きく、すべてを飲み込んでしまいそうに思えるほど巨大で真っ黒な瞳は、私をそこから一歩も動けなくさせるには十分だった。私は怖さのあまり震えだす。こんな時子供は怖い。分別の付く大人と違って、いきなり何をしてくるのかまったく予想ができないからだ。もし、むんずと捕まれるようなことでもあれば、か弱い私にいったい何ができるだろう。
いっそのこと思い切って死んだふりでもするか、と私が自棄を起こしかけていると、遠くから雷鳴のように女性の声が聞こえてきた。
「たくや君、お昼の時間ですよ」
「はあい」
それまで永遠に見つめあうのではないかと思っていた私を一人置いて、たくや君と呼ばれた目の前の少年は、立ち上がった。その時、たまたま太陽を通した虫メガネの焦点が私と、私のいる地面を焦がす。急激に熱された地面から、私はあわてて飛びすさった。
「危ないじゃないか!」
抗議の声をあげた瞬間、私はぎょっと目を見開いた。彼の靴裏が私の頭上に迫ってきている。私はもんどりうって回避した。後ろを振り返ると、先ほどまで私がいた場所に、大きな靴がズシンと轟音を響かせて着地した。ため息をつく。そのまま見上げると、たくや君は私のことなどもう忘れてしまったのか、そのまま走り去っていってしまった。私は彼のいた地面周辺を隈なく探す。しかし、食べ残しの一かけらも見つけることはできなかった。再び大きなため息をつく。私もまた、とぼとぼと自分の職場へと向かうのだった。