阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「狐火」榛野ひつじ
今日日、若い女主人が一人で営む質屋ほど、客に侮られるものはない。
「お客様、こちらの時計は三万円でいかがでしょうか」
真っ黒に日焼けをした金髪の大男を前に、おずおずと査定額を伝える。
「三万だぁ? 何言ってんだ、こいつはロレックスの一級品だぞ。二十万もしたんだ」
本物のロレックスの一級品が二十万円で買えるはずもないが、大男の大きな声に気圧され、つい弱気な査定額が口をつく。
「で、では、五万円でいかがですか」
大男は鼻息荒く私を見下ろすと、
「ふん。今日のところはそれでいいか」
と、勝ち誇った顔で笑い、五万円をひっつかんで帰って行った。
二年前、個人経営で質屋を営んでいた父が事故で亡くなり、一人娘である私が店を受け継いだ。私には父ほどの手腕はないとわかると、安物で高額の買い取りを狙う客が増えた。
溜息を一つ吐き、カウンターに腰掛ける。
「また随分と損をしましたね」
ふいに聞こえた声に驚いて横を見ると、さらに驚くほど至近距離に見知らぬ男の姿があり、思わず飛び退いた。いつの間に入店していたのだろう。上ずった声で返事をする。
「し、失礼いたしました。お客様がいらっしゃったとは、気がつきませんでした」
男は気にも留めていない様子で続けた。
「私だったら、高くても一万円でしょうね」
男は同業者なのだろうか。すらりとした長身に、一目見れば上質とわかるスーツをまとい、狐のお面のような貼り付いた笑顔を浮かべて、大男が去ったドアを見つめている。
「あの、何かご用でしょうか」
おずおずと問うと、狐男はこちらを向いて意気揚々と答えた。
「質入れをお願いしたいのです」
至極真っ当な注文に、かえって面食らう。
「あ、はい、質入れですね。お品物は?」
「私です」
ワタシ、と言っただろうか。
「すみません、聞き取れなかったのですが」
「ですから、質草は私です」
狐につままれたよう、とはこのことか。どうやら聞き間違いではないようだ。
「申し訳ありませんが、当店では人間のお預かりは致しかねます」
間違ったことは言っていないはずなのに、自分の言葉がひどく滑稽に聞こえる。それでも狐男には、まるで聞こえていないようだ。
「お金をお借りしたいのです。私のこの身を担保に、一万円ぽっきりで構いません。三か月間、この質屋で預かってください」
こちらの困惑などおかまいなしに、狐男は笑顔を貼り付けたまま話し続ける。
「たったの一万円で三か月間、必ずやこの質屋のお役に立ちましょう。その一万円も、必ずお返しすると約束いたします」
そう言いながら一歩ずつ近づいてくる狐の面に気圧され、私はつい了承してしまった。
翌日から、狐男は驚くほどよく働いた。店の隅から隅まで箒で掃き、壁という壁を拭いた。客が来ると私の脇に立ち、品物を覗き込んでいたかと思えば、時折、店主の私でも脱帽するような目利きを発揮した。
常連客の多くは狐男を気味悪がり、近寄らなくなった。代わりに新規の客が増え、特に若い女性が目立つようになり、私は随分と、査定額を伝えやすくなった。
そうして、あっという間に三か月が経った。 今日の閉店までに、狐男から一万円を返してもらわなければならない。私は、そのことを切り出せずにいた。
「あと三十分もすれば、本日も閉店ですね」
口を開いたのは狐男だった。いつもと変わらず貼り付いたその笑顔には、どこか寂しさが滲んでいた。私が狐男の正体に気づいていることに、狐男もまた気づいているのだろう。狐男がつぶやくように話し始める。
「まったく、あなたという人はどこまでも甘い。目の前に金を貸した人間がいたら、今日がその貸付期限だと、はっきり言わなければなりませんよ」
言葉とは裏腹に、狐男の声はひどく優しい。
「いいですか、たとえ客が金髪で強面の大男であっても、あなたは自分の査定額を貫き通さなければなりません。そのためには、自分の目利きにもっと自信を持つこと。大丈夫、あなたはすでに立派な女主人ですよ」
狐男は貼り付いた笑顔を崩さない。反対に私の顔は、涙でぐちゃぐちゃになっていた。
「ありがとう……お父さん」
狐男は一際にっこりと微笑むと、瞬き一つの間に消え、その場所には、別れを告げるかのように一万円札がひらひらと舞っていた。