阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「いわく」村山むら
名刺には高橋商事とあったので中小企業かと思ったら、古い質屋だった。
「もうあらかた持ってかれちゃったし、もともと金目の物なんてコピー機くらいじゃないの。ここの家も娘が出戻ったりいろいろあってさ……金がかかったんだろうね。昔の地主様もあわれなもんだ」
薄汚れた壁に溶け込みそうな色のシャツを着た男が、馴れ馴れしく話しかけてきた。
「あんたんとこはいくらいかれたの? うちはそんなでもないけどさ、でかいとこは1000万らしいよ」
「あたしは300万。爪に火を灯すようにして貯めた金なんよ。長年のお客さんだから貸したのに、貯金全部持ってかれちゃったわ」
実際はその一〇分の一にも満たないが、金額の多寡は権利に関わる。美佐代は同情を引くような言い回しも忘れなかった。
だが、部屋はどこまでもガランとしていた。机やイスもなく、キャビネットがあったらしい場所は、四角く色が変わっていた。
夜逃げで本当にかわいそうなのは貸した側だ。借り倒されたら、少しでも回収するために換金できそうな品を根こそぎ持ち出す。もちろん違法だが、美佐代に罪悪感はない。
同じ目的で居合わせた男が、土足のまま奥の住居部分へと侵入したので、美佐代も遅れぬよう後を追った。
「何もねえや。お、これは使えるか」
男が台所から醤油を持ち出してきた。
「あー、こりゃダメだ。賞味期限が去年だ」
「未開封なら、それくらい大丈夫よ」
美佐代は小さく舌打ちをした。ゴミ同然の衣類や段ボールが転がっているだけで、値のつきそうなものはゼロだ。質屋に金を貸すなんて、我ながらバカなことをしたものだ。
ふと上を見ると、天袋が開いていた。押し入れに足をかけ、強引にのぞくと和装用のたとう紙らしきものが見える。必死に手を伸ばして取り出すと、やはり着物だった。
(友禅だわ)
手描きか確認しようと顔を近づけると、カビの臭いが鼻を直撃して思わずむせた。
「いいのがあったかい?」
すかさず男が聞いてきた。興奮を悟られぬよう、美佐代は周到に答える。
「着物があったわ。ものはよさそうだけど、相当古いみたい。すごい臭いよ」
「金になりそうかい?」
「どうかしら。古い着物は解いて専門業者に洗ってもらわなきゃなんないの。10万くらいするのよね」
10万かかると聞いて、男は興味を失くしたようだった。
「うちはいらないよ。仕方ねえ、こっちは50万の醤油で我慢するか」
男が貸した金は50万だったらしい。
「あら、そう。もったいないし、あたしがいただいていいかしら」
残り物には福がある。自宅に戻ると、クリスマスプレゼントを開ける子供のように、茶色く変色したたとう紙を開いた。
ものがいいどころではない。黒地に鳳凰、牡丹、橘に藤という手間のかかった絵図は作家の一点ものと思われ、あきらかに自分とは数段格が違う家の女が頼んだ品だ。しかも大福帳を破いたような紙が一緒に入っていて、達筆の中に「未使用」の文字が読めた。
この着物を着て店に立つ華やかな自分を想像し、美佐代はうっとりする。最近は景気が悪くて着物を新調できないでいたから、ありがたいことこの上ない。
部屋中の窓を開け、臭いを風で散らした。この臭いのおかげで持って行かれずにすんだのだろうが、古い着物にはよくあることで、陰干ししてからクリーニングに出せば問題ない。見頃を見るために袖を通そうとして、ぽとりと何かが落ちてきた。
お札だった。
神社のお守りコーナーなどで売っている安っぽいものではなく、祝詞が書かれた札だ。
(……どうして売らなかったのかしら)
美佐代は当然の疑問に打ち当たった。大切なものならば持って行くはずだし、いらないものなら売るはずだ。
贅沢に仕立てられ、着ることなく質屋に売られ、お札とともに天袋にしまわれた着物。美佐代は袖を通すのをためらい、借金を申しこんできた常連の顔を思い出す。
質屋は人の不幸を買い取って売りさばく。この着物と一緒に、高橋商事はどんな不幸を買い取ったのだろう。水商売は縁起をかつぐが美佐代も例外ではない。
(ああ、でも。これだけの着物、百万はくだらないわよ)
いわくつきの品であることは間違いなかった。美佐代は迷いに迷ったが、結局、見栄のほうが勝った。華美な着物をはおり、鏡の前に立つと、何か取り返しのつかない間違いをおかしたようなが気がしてならなかった。