阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「時計」佐藤清香
その夜、会社の仲間と久しぶりに楽しい時間過ごした。
昭夫はあと数日で四十年間勤めた会社を定年退職する。四十年間、様々なことがあった。辞表届を上司に渡したこともある。精神を病んで入院したこともあった。ただ、運よくこの仕事を続けることができた。マイホームを建て、子どもは今年大学を卒業する。
昭夫は今までの自分の人生に満足していた。決して華々しいものではないが、自分なりに納得いく花道を飾れたように思う。
皆と別れ、ほろ酔い気分で駅へ向かう途中一匹の猫が街灯の下に座っていた。その猫は昭夫を見て「にゃあ」と鳴き、暗く狭い路地へ入って行く。ぼんやりと暗い路地に猫が浮かびあがり、何度もこちらを振り返った。
昭夫は何かに突き動かされるようにその猫の後ろをついて行く。狭い路地の奥へ進むとそこは袋小路になっていて、古い家がぽつんと建っていた。「質」という暖簾が正面玄関にかかっており、それが夜風になびいていた。「質」という紺色の暖簾を見たとたん昭夫の後ろにうっそうとした森が広がった。
「ざざぁ」と強い風がその森を通り抜けるように心はざわつき、若かりし日を鮮明に思い出した。
その質屋の前に昭夫が立ったのは、大学卒業前の時だった。就職は決まっていたのだが最後の授業料をすべて賭け事につぎ込んでしまったのだ。
そんなことは初めてだった。
父を早くに亡くし女手ひとつで育ててくれた母の顔がいつもどこかでちらつき、自分なりにだが節度を守って賭け事をしていた。しかし、学生最後ということもあってか昭夫ははめを外し、母からの仕送りは泡のように消えてしまったのだった。
質屋の前で昭夫が手に持っていたのは、父の形見の腕時計であった。皮ベルトはくたびれていたが、いぶし銀の時計は自慢のものだった。手放したくはないが、金目のものといえばそれくらいしかなく、ためらいながら暖簾をくぐった。
「はい、いらっしゃい」
質屋の店主はくたびれた茶色いチョッキを着て新聞を読んでいた。丸眼鏡に出っ歯の姿はまるでモグラのようだった。
「この時計はどのくらいになりますか」
時計をだすと、主人は虫眼鏡を手に持ち時計を凝視した。
「いくら欲しいの」
主人は昭夫の目をじっと見た。昭夫は大学生活最後の授業料の値段を主人に告げた。
「そう。じゃあ、それで買い取りましょう」
金を受け取り、質屋を出ようと扉を開けた時、後ろから主人の声がした。
「その金、無駄にするなよ」
それは質屋の主人の声なのだが、死んだ父に言われているようだった。昭夫は申し訳ない気持ちで逃げ出したかったが、頭を下げ店を後にした。
その質屋が今昭夫の目の前にあった。ずっと心の奥にあった大切な出来事だったはずが今の今まで忘れていたことに愕然とした。
質屋のぼんやりと揺れる光に吸い込まれるように、昭夫は暖簾をくぐった。
「はい、いらっしゃい」
そこには、当時と同じようにモグラに似た主人が新聞を読んでいた。
息を呑んだ。あれから、四十年経ったはずである。しかし質屋は当時のままだった。主人は新聞から目線を外し、昭夫の方に目を向けた。
「あの時計ありますか」
「あぁ、あの時計ね。ないよ。すぐに流れてしまった」
「そうですか」
昭夫は目頭が熱くなった。
「あの金で大学を無事卒業し、その後就職した会社に定年まで勤め、家族を養うことができました」
「そう、お疲れさん。よく頑張ったね」
主人のその一言は、父に褒められた時のことを蘇らせた。父は成績表の結果よりも、誰かのために何かをした時に
「お疲れさん。よく頑張ったな」
そう言って昭夫の頭をぽんぽんと優しく叩いた。その時のことを思い出し、じんわりと昭夫の胸にあたたかいものが広がっていった。
それから、どのように家へ戻ってきたのか気が付くと昭夫は家に戻り、背広のまま布団の上で寝ていた。
常夜灯のなかでぼんやりと時計を見る。文字盤は滲み、昭夫は目を凝らした。
時計は確かに夜明け前をさしていた。