阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「虎太郎の兜飾り」戸川桜良
からっと晴れた、寒い冬の日のことだった。
明治から続く質屋を営む私は、妻と共に質草の虫干しに追われていたのだ。
「あれ、あんた、こんな物まで引き取ったの」
妻の声に振り返ると、ガラスのケースに収められた、立派な兜飾りが視界に映った。兜の金具が、太陽の光を弾いて輝いている。
「ちょっと前に、痩せたのっぽの若者が来ただろう。あいつのだよ。なんでも、亡くなったお祖父さんから貰った物なんだと」
妻は顔をしかめた。
「そんな大事な物を質に入れるなんて、薄情な孫ね……あら、箱の底に、何か入ってる」
何かに気付いたらしい妻は、言うが早いか、ガラスケースの上蓋を取り外しにかかった。
「おいおい、質草とはいえ、人様の物だぞ」
「構わないわよ、どうせ取りに来やしないんだから。これ、手紙かしら」
妻が手に取ったのは、一枚の封筒だった。だいぶ年月が経っているのか、すっかり黄ばみ、繊維が毛羽立っている。中に入っていた紙面には、見事な達筆が綴られていた。
『我が初孫、根岸虎太郎君、君の健やかな成長を願って、これを贈る。根岸辰之助』
喜びが弾けるような、闊達な字だった。いそいそと墨を磨る辰之助じいさんの姿が、目に見えるようだった。
「待望の子だったんだなぁ、虎太郎君」
それなのに、虎太郎青年はこの手紙に気付かなかったのだろうか。置き去りにされてしまった辰之助じいさんの想いが、不憫だった。
妻がわざとらしく咳ばらいをした。
「あんた、この手紙、返してらっしゃいよ。帳簿に住所、残っているでしょう?」
「ええ?」
「だってあんたが払ったのは、兜飾りのお金で、この手紙に対してではないでしょう。それにこれじゃ、お祖父さんが可哀相だわ」
妻が笑って、私の手に手紙を押し付けた。
「そうか……そうだな」
私はゆっくりと頷き、手紙を握り締めた。
帳簿に記されていた虎太郎青年の住所は、店から歩いて十五分ほどの距離だった。比較的家賃の安い、築三十年以上の古アパートが並ぶ地区である。
人通りの少ない細い道を歩いていると、どこからか、赤ん坊の泣き声が聞こえてきた……と思った次の瞬間、目の前のアパートの一室から一人の女が飛び出してきて、隣の部屋の扉を、乱暴に叩き始めたのである。
「根岸さん、うるさいんだけど!」
何事かと思って眺めていると、扉が開き、中から若い男性が現れた。男性の顔を見て、私は息をのんだ。間違いない、虎太郎青年だ。肩をすくませ、しきりに頭を下げている。
「泣きやまないなら、散歩に連れ出すとかしなさいよ。迷惑ったらありゃしない」
女はヒステリックに言い捨てると、ようやく自室へ戻っていった。深々とため息をつく虎太郎青年の後ろから、若い女性が顔を出した。両腕の中では丸々と太った赤ん坊が、身をのけぞらせて泣いている。
「やっぱり私、外に出てようか」
女性が心配そうに尋ねたが、虎太郎青年は首を左右に振った。
「いいさ。こんな寒い日に外に連れ出したら、申一が風邪をひくかもしれないだろ。それより、腹、減ったろ。なんか作ってやるよ」
「あなたは? 最近あなた、私にばかり食べさせて、自分はほとんど食べてないじゃない」
「中年太り予防だよ。それに申一は、沢山お乳を飲んで、元気に育ってもらわないと」
……気付いたら私は、店に向かって走り出していた。息せき切って戻ってきた私を見て、妻はあんぐりと口をあけた。
「兜飾り、持って来い」
妻が何か言い出す前に、ひったくるように兜飾りを抱え、再び店を飛び出した。目指すは無論、あの古アパートだ。
ああ、辰之助じいさん。と、私は走りながら、心の中で呼びかけた。私はあんたに会ったことはないが、虎太郎青年はきっと、あんたによく似ているよ。孫を思うあんたの心を、しっかりと受け継いでいるよ――。
「根岸さん、根岸さん!」
どんどんと扉を叩くと、すぐに虎太郎青年が現れた。私の顔を認め、眉を上げる。
「あれ、確か質屋の……」
私は、ぐいと兜飾りを虎太郎青年に押し付け、ぶっきらぼうに「返す」と言い放った。
「あんた、息子が生まれたんだろう。それなのに兜飾りもないんじゃ、可哀相じゃないか」
「でも、金が」
「ばか」
虎太郎青年が、びっくりした顔で私を見た。
「あんたに渡した金は、ただの祝い金だ。分かったらさっさと、質札を持ってこい!」
怒鳴りながら、私は自分の顔が火照っていくのを感じた。虎太郎青年の瞳に映る顔は、きっと真っ赤に染まっているに違いなかった。