阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「雨と質草」中田聡
「あ、なんだこいつ」
店の自動ドアが開いて、猫が入ってきた。普通、猫ぐらいでドアは開かないのだが、ひどく風のある雨降りの日で、何かの拍子でセンサーが反応したのだろう。やけに大きな、灰色の、不細工な、ずぶ濡れの猫が、ワックスを掛けた白い床に、点々と足跡を付けながら、ずかずかと店の奥へ向かって来た。
トミオは、慌ててモップを取って、猫の前に突き出した。手で捕まえて担ぎ出せばいいのだが、雑巾みたいに濡れている猫に触りたくなかった。ワイシャツやスラックスに飛沫や毛がつくのも不愉快だ。汚れたくないのだ。
三〇を過ぎて勤めを辞めたトミオは、叔父の営む商店街の質屋を手伝っていた。元々は、トミオの母の父親、つまり祖父のやっていた、路地裏の小さな店で、客の入り口は、表通りからは見えないところに作られた勝手口だけだったのだが、トミオは、近頃は貴金属が高いし、中古のブランド品もよく売れるから、と叔父を説得して、表通りに面したガレージを改装し、派手な色づかいの広告看板と明るい照明の、流行りの貴金属買取店を作ったのだった。この店で、トミオは、高級ブランドのスーツを着て、いっぱしのビジネスパーソン然として、日がな一日、現金に詰まった金持ち客が駆け込んでくるのを待っていた。
目の前にモップを突き出された猫は、スッと立ち止まると、トミオを睨み上げ、軽く鼻息を吹いた。
「シッ、シッ、」
トミオはモップで猫の胸倉を突いた。すると猫は、二、三歩後退りした後、また、フン、と鼻息を吹き、再び襲って来たモップを軽く飛び越え、店の奥へ駆け込んでしまった。
「あ、こいつ!」
猫は泥足のまま廊下に入り、奥の、古い質屋の方へ駆けて行った。トミオは慌てて追った。
「どうした」
太鼓腹をランニングシャツに包んだ叔父のトミスケが、ポリポリと尻を掻きながら現れた。昼酒を食らって、鼻の頭を赤くしている。質屋がそれなりに繁盛していたのは祖父の代までで、四人いた子供のうち三人は、トミオの母を含め、すでに独立して一家を成していた。末弟のトミスケだけが、嫁も貰わず、何となく家業を継いで、昼行燈で暮らしているのだった。
トミオが口早に事情を話すと、トミスケは、フーン、と返事ともため息ともつかない声を出して、暗がりの廊下を戻って行った。
「ああなったら、おしまいだよ」
トミスケのすぐ上の姉である、トミオの母は、事ある毎に言った。
「あいつは、それでも遺産があったから何とかなったけど、お前にはないんだよ。あいつと同じように暮らせると思ったら、大間違いだよ」
そんなふうに弟を非難しながら、内心彼女は、トミオがトミスケの後継ぎになって、店と財産を引き継ぐことを狙っているのだった。
トミオが、質屋のスペースを通って台所まで行くと、トミスケは、猫に牛乳を与えていた。猫は舌を出して皿に注がれた牛乳を舐め、うまく飲めずに辺りにとび散らかしていた。
「オジサン、何? これ」
トミオが尋ねると、トミスケは、ああ、とまた、言葉ともため息ともつかない声を出して、戸袋から古い茶封筒を取り出し、「まあ、質草だな」と言って、ハーフパンツの尻のポケットに詰め込んであった札を数枚引っ張り出し、伸ばして、そこに入れた。
「済まないが、これをね、角のタバコ屋に届けてくれないか」
開いている店より、シャッターの下りた店の方が多い商店街だった。駅からも、幹線道路からも遠い、高齢化の進む街だ。質屋やタバコ屋が潤った時代も今は昔。降りしきる雨の中、シャツもズボンも濡らしながら、ぶつぶつ文句を言いながら、トミオはタバコ屋に向かった。かつての目抜き通りの角にある半畳程度の店で、いつもおばあさんが一人で店番をしていた。トミオは、傘を差したまま硝子戸を叩き、そっと開けられたそれの中に、茶封筒を差し入れた。
「おばあさんは、ご病気でね。病院の費用が、思ったより高くて」
いつものおばあさんではなかった。伏し目がちに言い訳する女性。もう五〇近くに見えるが、目元の涼し気な、艶のある人だ。
ははん。トミオは察した。猫を質草にして金を貸す暢気な質屋などあるわけがない。しかもその質草は、彼を先回りして、もうタバコ屋の中に戻っているのだ。
客の事情は、斟酌しないのが質屋の鉄則だ。トミオは今、別の鉄則を学んだ。貸主の事情もまた、斟酌すべからず。 (了)