阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「夢の生活」菅保夫
ハナコが見る夢の世界は、いつも同じ夜の小さな島だった。けれど暗いイメージではなく、空はいつも満天の星や月のせいで明るかった。幼い頃からその島の夢ばかりなので、夢を見るというよりもその世界で生活しているようなものだった。島の中央に商店街があって、そこから少し離れたところにハナコの家がある。現実世界のハナコはごく普通の家庭で生まれ育った女の子だ。両親と祖父母、それに姉が二人いる。
夢の世界でもハナコは現実世界と同じく成長していった。しかし夢の世界の登場人物たちは歳を取らなかった。特別変化のない楽しい世界だったが、ハナコが大人になり働くようになると変化を見せた。なぜか夢の世界の友人たちが次々といなくなってしまうのである。どこに行ったのかと他の友人に聞いても、元々存在していなかったように言うのだった。
ハナコが初めて給料をもらい、家族に夕食をごちそうした日。夢の中ではついに最後の友人もいなくなっていた。どこかにいるのではないかと探してみたが、見つけることができない。しばらくすると空腹を感じ、商店街で何か買って食べようとした。しかし財布には一円も入っておらず、家へ金を取りに帰る。
家の金庫は空になっていた。家中を探しまわっても一円すら出てこない。空腹感は強まり、どうにか食を満たしたく金を得ようとハナコは仕事を探した。けれどいつも陽気で楽しい商店街の店主たちはことごとくハナコを冷たくあしらい、仕事をくれないのだった。夢の世界なのだから目が覚めるのを待てばいいと、その時を待つことにした。
夢はなかなか覚めてくれない。ハナコは空腹のあまり気がおかしくなっていた。目の前にあった消しゴムや小石など、うっかり口に持っていきそうになるのだ。胃袋をヘビが締め上げているような苦痛が死の恐怖を感じさせる。水だけでも飲もうと思ったが、家の水道は出なくなっていたし、公園の水飲み場も公衆トイレも断水していて飲めない。
ハナコは断崖の上に座りこんでいた。いっそここから飛び降りたほうが楽かと考えたのだ。どうせ夢なのだからとさほど恐さもなく、むしろ飛び降りたショックで目が覚めるかもと期待もあった。深呼吸をして心を落ち着かせていると、ふと思い出した。商店街のはずれに一軒の質屋があったことを。ハナコは家に戻ると高価そうなものをバッグに詰めこみ質屋へ向かった。
質屋に入ったことは今まで一度もなかった。店番をしていたのはハナコと同い年くらいの若い女であった。持ってきたアクセサリーなどを取り出し買い取ってもらえないかとたずねる。店の女は、ここで買い取るのは時間だけだと笑顔で答えた。それから詳しい説明を始めたがハナコは空腹のせいかよく理解できず、ただハイと返答をくり返す。そして出された書類に了承のサインをしたのだった。
質屋の女はペンキ用のハケのようなものでハナコの手の平に三度触れた。たったそれだけのことで三万円を手に入れたのである。急いで定食屋へ入り、すぐに食べられるものをと思いカレーライスの大盛りを注文した。出てきたカレーは学校給食で出たような黄色くて具だくさんのものであった。一口食べるとハナコは涙した。美味しさと飢餓を救われた喜びが全身にあふれてくる。かむたびに歓喜の波が体中をかけめぐるのだった。完食し、支払いを済ませたところで突然目が覚めた。
長い長い夢だったが、目が覚めた時間はいつもの時刻だった。布団から体を起こしたハナコは急に吐き気をもよおし、洗面所に急いで黄色い液体を少量吐き出した。その様子に心配した家族がかけつけ声をかける。顔を上げたハナコを見てみな驚いた。意味が分からずハナコは鏡を見る。そこに映っていたのは、まるで老婆のようになった自分であった。肌はツヤを無くしシミや奇妙なデキモノができており、血の気が引いていた。髪も老人のもののようになっていたのである。ハナコはその場で気を失って倒れた。
運ばれた病院で点滴をされ、検査のためしばらく入院することになった。ハナコはあの質屋のことを思い出していた。金に替えた時間は現実世界での寿命だった、それも三十年という時間をたった三万円で売ったのだ。
病室の窓から夕焼けが射しこむ。すぐに夜になる。ハナコは思いをめぐらす。今夜もあの夢の世界に行くのだろうか、またあの強烈な飢餓感に襲われるだろうか、使った金の残りはちゃんとあるだろうかと。やがて夜もふけ、しばらくは睡魔と戦っていたハナコだったが、ついには耐えられずあえなく目を閉じたのだった。