佳作「雪まつり おかめぐみ」
やけに冷えると思っていたら、とうとう降ってきたらしい。すっかり闇の色ばかりを映していた窓に、ぽつりぽつりと白い欠片が光る。なんとなく見ていたサスペンスドラマでは、本格的な雪の中で男が刺され、噴き出た血が真っ白な雪の上に飛び散り赤が広がる。
私は不意に花火が見たくなったので、隣に座っている夫に「ねえ、花火が見たい」と言った。案の定、夫は呆れたように眉を寄せて「今?」と尋るので、大きく頷く。
この夏、二人で行く約束をしていた花火大会には行けなかった。夫が当日、私が止めたのに、いただき物のスイカを食べ過ぎて腹痛を起こしたせいだ。
夫が何か思い出したらしく、私たちは小雪が舞う中、たっぷり防寒具を着込んで列車に乗った。途中の駅で奈良行きの急行列車に乗り換えた。列車が長いトンネルに入った時は、少し息がつまる心地がした。昔このトンネルにまつわる怖い話を聞いたせいかもしれない。
降りたのは山の麓の駅だった。雪はまだぽつぽつと降っている。傘をさすほどではないが、寒さがシンと体に沁みる。改札を出たら人はまばらで、街灯も暗い。
「ずっと忘れてたけど、たぶん今日だよ。子供の頃に見たんだ」
小学生の頃、この地に住んでいたことがある夫は迷いなく道を進み、ケーブルカー乗り場に着いた。だがそこはすっかり明かりが消えていて、案内板を見ると運行時間は終わっていた。夫はそれに構わず、乗り場の右手後ろに伸びる小さな山道に足を向けた。
小さなライトは持っているが、雪も舞う冬の夜に山道を進んでいいものか。不安を抱えつつ、私は何も言わずに彼について行った。少し歩くと、辺りで火花の弾けるような音がして、小学生くらいの男の子が線香花火を手に現れた。半袖短パンとやけに軽装だ。夫はその子に気安く声をかけた。
「雪まつりに花火はあがる?」
「もうちょっと上ると見やすいよ」
男の子が細い上り道を指したので、私たちはそちらに進んで見晴らしのよい広場に出た。そこには何十人か集まっていて、浴衣姿の者もちらほら見えた。何故か少しも寒そうに見えない。
突然、みんながいっせいに暗い空を指さした。そちらを見ると、音もなく花火が上がり、空一面を白くて眩しい光の花が、次から次へと広がっては消えた。花火はほとんどが白一色だったが、時折、赤や青の光の粒も空を彩り、ゆったりと降る雪を明るく照らした。
雪まつりの花火は美しかった。不意の思いつきだったが言ってみるものだ。「花火が見たい」と言わなければ、この光景には一生出会わなかっただろう。
どれくらいの間、そうやって空を見上げていたかはわからない。ふと我に返ると、いつの間にか私たち二人を残して、まつりの見物人たちはすっかりその場からいなくなっていた。
そこからまた道を少し上ると、山の頂上に着いた。ケーブルの山頂駅の向かいに取り残されたような遊園地があった。さびた遊具がいくつも亡霊のように立っていて、奇妙な夢を見ている気分になってきた。
私と夫は黙って来た道を下っていった。帰りの電車に揺られながら欠伸が出たが、眠ってしまうと、すべてが夢の中でのできごとだったことになりそうなので、私は手の甲に反対の手指の爪を立てながら、窓の外に流れる闇夜の景色を眺めていた。隣に座る夫は満足したのか、私に寄りかかって熟睡していた。
列車が長いトンネル内に入ると、私たち二人以外に乗客のいないこの車両だけが、このまま暗いどこかへ迷い込むという想像に囚われた。
無事駅について夫は目覚めたが、何も覚えていないのではないかと心配になった。
「花火、きれいだったね」
駅から歩いて家に向かう途中でぼつりと言ったら、夫は「うん」と嬉しそうに笑った。
「でも君はなぜ突然、花火が見たくなったの?」
「だってあのドラマで雪に血が飛び散ったから。かき氷のシロップより赤いなと思って。この赤さはスイカだなと思ったら、スイカのせいで花火を見損ねたと思い出して」
「僕の奥さんは、なかなかに恐ろしい連想をするもんだね」
「思いついたから、しかたないよ」
「それがちょうど雪まつりの日とはね」
嬉しそうに笑う夫の顔からすると、花火を見たのは夢ではなかったらしい。手袋を通して夫のぬくもりを感じながら、私は真夜中の道を行った。舞い落ちる白い欠片が、雪なのか花火のまぼろしか、その境がおぼろげだ。
明日になっても私が花火のことを覚えているのかはわからなかった。