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佳作「最後の日 西田美波」

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作文・エッセイ
結果発表
TO-BE小説工房
第29回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「最後の日 西田美波」

恐怖の大王が一九九七年七月に天から降りてくるらしく、地球は今日、滅亡する。

地球に生きる者等しくその命を終えるのだから、大学のレポート提出なんてしなくてもと思いながらも私は、片道二十分の電車に揺られていた。レポート受付時間は午後一時から五時。研究室にいる教授に直接渡さねばならない。駅から大学まで歩く時間を加味しても、予定通り十二時半過ぎには着くだろう。

窓枠に片肘ついて流れる外の景色を眺めていると、太陽の周りに浮かぶ光の輪が目についた。初めて見たそれは美しく、だから余計に私の恐怖を掻きたてた。まだ駄目だ。死ぬ前にせめて一目、同じ講義を受講している好きな人の顔を見ておかないと。

そんなささやかな願いが叶えられる瞬間を待つつもりで早々と大学に到着したのに、トイレの鏡の前で時間をつぶしてようやく一時ぴったりに開けた研究室のドアの向こうに彼がいた。茶色のソファに腰かけて談笑し、珈琲のもてなしさえ受けている。不意打ちで、何度も練習した笑顔を作るのに失敗した。

「君も偉いねえ。感心だ」教授は満足そうに笑い、彼の隣を私に勧めた。「君にも珈琲をご馳走しよう。喫茶店のお気に入りなんだ」

みんな思い思いに最後の一日を楽しんでいるのかもしれない。一時間経っても他の学生はやってこず、私たちは揃って研究室を出た。三人のときは滑らかに会話が回っていたのに、まるで私の緊張が伝わってしまったかのように、今は沈黙がつきまとっている。

「今日、雨降るの?」

イギリス人ほど日本人は天気の話ではそう盛り上がれないのに、私は訊ねた。彼の左手に握られた黒い傘がずっと気になっていた。

「あ、これは、ヒガサが出てたから念のため」

「……日傘?」

「お日様の日に、眩暈の二文字目のほう、それで日暈。低気圧の接近で発生するんだって。必ず雨が降るわけじゃないらしいんだけどさ」

「なんだ、私、てっきり恐怖の大王が降りてくる前触れかと思っちゃった」

緊張がほぐれた笑い声をあげ、ふたたび強張った顔つきでしばらくなにかを思案していた彼の提案で、私たちは教授が珈琲豆を買っている喫茶店に向かった。身体の線は細いのに、彼の食欲はその年の平均的な男の子並みに旺盛だった。オムライスの山を崩す手の爪は短く切りそろえられ、唇は血色がいい。顔を動かすたび、真っ直ぐな前髪が額でさらさらと揺れた。

食後に頼んだベイクドチーズケーキは濃厚でまったりとしていて、しっかりした味わいの珈琲によく合った。「珈琲とデザートの組み合わせが好きなんだ」と言った彼はひとくちひとくち、美味しそうにケーキを口に運んだ。彼について知りたいことが数え切れないほどにあるのに、残された時間はあまりに短い。

夕方、カフェを出ると雨が降っていた。

「電車だったよね、駅まで送るよ」

蝙蝠傘にふたりでおさまると、そこには小さな世界があった。地面に流れ落ちていくカーテンに囲まれている。次第に強まってきたメロディーはその向こうの物音を掻き消した。ときおり駆け足ですれ違っていくひとたちの顔は見えない。今ここにいるのは、私と彼だけだ。ソファでは空いていた隙間がぴったりと埋まり、傘を握る彼の左手に触れる右腕が熱くてたまらない。

「そういえばさ」彼がおもむろに言った。「予言の七月って、どこ基準の七月なんだろ。つまりさ、時差を考えると、明日も地球のどこかはまだ七月だよね。最大時間だったっけ、二十……いくつだろ? 二十四時間はないはずだけど」

どうせ降りてくるのなら、今この瞬間に来てよ、大王さま。そうすれば私はこの傘の下で、幸せなまま死ねる。けれど何事もなく、私たちは駅に着いてしまった。これでもう、さよなら。ふたりきりだった世界から手を振って出て行こうとした私に、彼が耳を赤らめながら言った。

「あのさ、その、電話ひいてるなら、番号教えてくれない……かな?」

「いい、いいよ、いつでもかけてきて! 朝でも夜でも!」

「じゃあ、明日の真夜中に。地球が滅亡していなかったら」

恐怖の大王は現れず、ついに世界中が一九九七年八月の時間を刻んでいた真夜中、彼から電話があった。初めて聞く電話越しの声はいつもより少し低く響き、いつものように柔らかい。一言も一音も、わずかな呼吸の音すら聞き逃したくなくて、私はぎゅっと受話器を耳に押し付けた。優しく笑う声を聞きながら、こんな日々がずっと続いてくれればいいのにと、私は泣きたい気持ちで思った。