佳作「きつねの嫁入り 稲尾れい」
土埃の立つ道に、小さな水玉が幾つも現れた。途端に、湿った土の匂いが鼻をついた。
黒いこうもり傘を開く。父のお下がりで、私一人が入るには少し大きい。がっしりした柄を両手で掴み、くるくると回しながら歩く。
「水江さーん」声に振り向けば、暁彦さんが学生鞄を頭の上にかかげ、駆け寄ってくるところだった。横に並び、ニッと笑う。
「失敬。急に降ってきたものだから」
一緒に遊んだ子供の頃から変わらない、人懐っこい笑顔。けれど、妙にまぶしい。胸の高鳴りを隠すように笑い、傘を軽く傾けた。
「にわか雨に注意って、今朝のラジオでちゃんと言っていたわよ」
「そうだったかな」言いながら、暁彦さんは傘の柄を片手で掴み、私の手から軽々と取る。
駄菓子屋の軒下で雨宿りをしている子供達が数人、ニヤニヤとこちらを見ていた。「相合傘だ」誰かが口笛を吹く。
私に傘を差し掛けたまま、暁彦さんは少し体を離した。そして、口を開いた。
「僕、卒業したら南武百貨店の洋品部で働くよ。今日、正式に決まったんだ」
「まぁ、本当?凄いわ」
嬉しくなり、パッと顔を向けると、暁彦さんが真顔で見つめていた。私は、わざと拗ねたような口調で、笑い混じりに続けた。
「あなた、どんどん先に進んでいってしまうのね。私が女学校でぼんやりしている間に」
「早くいっぱしの社会人になって、しっかり稼ぐんだ。女手一つで育ててくれたお袋には楽をさせてやりたいし、それに、ゆくゆくは所帯も……」言葉はそこで途切れた。
傘からはみ出した暁彦さんの学生服の肩が、雨に濡れていた。私達は黙って歩き続けた。
白く乾いたアスファルトの道に、小さな水玉が幾つも現れた。娘時代に歩いたような、舗装されていない道など、もう四十年ちかく前に見かけなくなった。それでも、湿った土の匂いが、どこからともなく流れてくる。
差していた黒い日傘を傾け、空を仰いだ。相変わらず太陽が照り輝いていた。けれど、大粒の雨がぽつぽつと日傘を叩いている。
「今はもっとお洒落で高性能なのがあるのに。私が生まれる前から使ってるんでしょ、それ」
五年前に還暦を迎えた娘は、そう言って苦笑する。けれど、歳を重ねると、長年使ってきた物の方が、手に馴染んで使いやすくなるのだ。特に、この日傘には思い入れがある。
雨粒を払い、日傘を畳もうとした私の横に、学生服姿の青年が駆け寄ってきた。
「失敬。急に降ってきたものだから」そう言ってニッと笑ったのは、暁彦さんだった。
「駄目だわ。これ、日傘だもの」思わず出た声も言葉遣いも、娘時代のそれになっていた。
公園には、誰もいなかった。遊具が濃い影を落とし、日の光に照らされた雨の粒が、辺り一面をきらめかせている。私達は東屋に並んで立ち、雨宿りをしながらそれを見ていた。
「きつねの嫁入りね」
「きつね?」
「天気雨の降る時は、きつねの婚礼が執り行われていると言うでしょう。もしかして、あなたの正体もきつねなの?」言いつつ、暁彦さんを見た。私の記憶と寸分違わない姿。
「僕はきつねじゃないさ。でも確かに君を迎えに来た。ねえ、僕と一緒に来てくれないか」
「あら。私、いよいよ死ぬのかしら?」
「死ぬんじゃない。この姿のまま、二人で別の世界に飛び込むんだ。こっちの世界の僕達は、言わば神隠しに遭ったようになる」
いつの間にか、足元の地面には道のような光の帯が一筋、伸びていた。畳んだ日傘を持つ私の手を、暁彦さんは優しく握った。温かくも冷たくもない手だった。
私は暁彦さんの手を出来る限りそっと離し、光の帯から一歩後ずさった。
「私には、この世界で歩んできた人生があるわ。それをちゃんと全うしたいの」
光の帯を映した暁彦さんの目は、揺らいで見えた。その目をじっと見つめ、続けた。
「けれど、この歳になってまた会えるなんて、夢にも思わなかったわ。嬉しかった」
暁彦さんの目が、まぶしげに細められた。
「水江さん。僕は、君にお嫁に来て欲しかったよ。今さっきまでの話じゃない。あの頃からずっと、そうだったんだ」
雨脚は次第に弱まりつつあった。光の帯もまた、呼応するように薄くなり始めていた。
「ずっと持っていてくれたんだね。その日傘」
呟くように言い、暁彦さんは微笑んだ。
気が付けば、たった一人で東屋に立っていた。雨は完全に止んでいた。
「暁彦さん」いつもの私の声だった。
ひとつ深呼吸をすると日傘を差し、くるくると回しながら、私は公園の出口に向かった。