選外佳作「ロボット 佐倉唯」
私はロボットだ。いや、正確に言うと、ロボットかもしれない。確信ではないのは、もちろん、人間だという可能性も充分にあるから。私にはお父さんとお母さんがいて、左胸では規則的なリズムを刻んでいる。感情があり、感覚もある(私は慢性の頭痛持ちだ)。それに、毎日学校に行き、また、友達もいる。ならば、なぜ、ロボットである可能性があるのか。後頭部にある小さなボタン。それが、ただ一つの、それでいて確実な、それの証明だ。
私がそのボタンに気づいたのはもう十年も前。丁度、小学校に上がる頃だったと思う。何かの拍子に触れた硬いそれは、直径一センチメートル程の、本当に小さなものだ。後頭部という見えない場所だが、私にはそれがボタンだとわかった。なぜなら、そこだけ冷たいのだ。体温など一度たりとも受け取らないような、作り物のような冷たさがある。また、その突起は少しだけカクカクと動かすことができる。あるいは、幼いからこその発想もあるかもしれない。
私は、これが他の人にはないものだと知っている。ボタンの存在に気づいた頃こそ、友達の頭を触って探しては、随分と怪しまれたものだ。けれど、誰の頭にもそんなものはついていなかった。これは、私だけのもの。みんなは持っていないもの。私は、誰にもこのことは言わなかった。また、人の目にとまらないよう、常に伸ばした髪の毛で隠していた。自分だけの特別を独り占めしたかったのだと思う。
押してみたい。何度もそう思ったことがある。何歳になっても、その衝動はなくならなかった。そして、このボタンもなくならなかった。大きくも小さくもならず、いつもそこにあった。けれど私は、一度も押したことはなかった。指を触れたのは何度もある。いく度も感触を確かめた。だが、決定的な力を加えたことはない。心の中の小さな私が「押してはいけない」と言っている気がするから。その先が見えないことは、非常に怖いものである。もしかすると、「押したらどうなるのだろう」という好奇心に捕らえられていたのかもしれない。
そんな日々が変わるとき、私はもう高校生になっていた。窓の外では雨が降っている。それも、大粒の雨。私は天気予報を甘く見て傘を家に置いてきたことを酷く後悔した。どうやって帰ろうか。少し待っていれば止むだろうか。なんて考えながら廊下を歩いていた私は、前方から走ってきた男子生徒を上手く避けることができず、そのままぶつかった。雨天時の床は普段よりもよく滑る。恥ずかしながら、私は後ろむきにこけてしまった。
地面に頭がつくその瞬間、頭の中に響いたカチッという音。痛みよりも、その音に対する恐怖が私の涙をつくった。白い照明に、駆け寄ってくる人たちの顔に、次第に靄がかかっていく。
ノック式のボールペンを押したときのような軽い音だった。
目が覚めたのは、固いベッドの上だった。状況がわからず、記憶を手繰る。雨が降っていて、廊下でこけて、それから。そうだ。とっさに起き上がり、後頭部へと手を回す。たしかあの瞬間、ボタンが押された。どうなったのだろう。指先に、相変わらずの冷たさを感じた。そうか、押したのは気のせいなのか。いや、そんなはずがない。あの呆気ない音はまだ、頭の中にいる。私はもう一度それに触れた。確かにそこには、冷たい部分がある。だが、ボタンはなかった。以前のような突起がなくなっている。やはり、押してしまっていた。
禁忌を犯したような気分だ。これを誰に咎めれられるわけでもないのに、焦りが生まれて感情がぐちゃぐちゃになる。十年間も戦った誘惑を、いとも簡単に壊してしまった。私はどうなってしまうのだろう。明日はくるのだろうか。何が変わってしまうのだろうか。悪くなるのか、はたまた良くなるのか。何も想像がつかない。
結局、何も大きな変化はなかった。親も友達も変わらずいて、今日も、明日もある。変わったことといえば、慢性的な頭痛を感じなくなったこと、友達に鈍いと言われるようになったこと、そして、ボタンを気にしなくなったことくらいだ。
ようやく私はあの日、ロボットになった。あるいは、人間になった。