選外佳作「ボタンの居場所 大森亜希」
夫が浮気をした。妊娠中の風俗は浮気ではなく気晴らしだと本人は弁解していたけれど、私にとっては浮気だった。短く激しい喧嘩の後、私は夫をアパートから追い出した。「もう顔も見たくない」なんて、ベタすぎるセリフを自分が口にすることになる日が来るなんて思ってもみなかった。
夫は今大学時代の先輩の家に居候している。加奈さん、許してやってよ、と三木先輩からメールが届いたが、とてもそういう気分にはなれなかった。
私の不穏な胸の内を察してか、もぞもぞと胎内で赤ちゃんが動く気配がする。このまま順調に行けば、三か月後には出産だ。性別はおそらく、男の子。
「君のお父さんは困ったやつだね」
この子も将来奥さんを悩ますようなことをしでかすのだろうか。
「風俗には行くなよ」
生まれる前から説教されたのが堪えたのか、胎動がやんだ。そこでこっそり私は付け加える。
「行くならせめて、ばれないようにやんなさいよ」
赤ちゃんからの返事は、ない。
「……何言ってんだ、私」
リビングの絨毯の上に寝転がって窓の外を見ると、街路樹からはらはらと葉っぱが舞い降りてくるのがよく分かる。ベランダにやって来る落ち葉には悩まされているけれど、私はこの眺めが気に入っていた。
駅から徒歩五分、南東向き、2DKの二階。
ふたりで物件を選んだときのことを思い出すと、鼻の奥がツンとなった。考えるのはよそうと寝返りを打つと、テーブルの下に何か黒いものがあるのを見つけた。
「ああ、ここにあったの」
それは夫のセーターのボタンだった。クローゼットからセーターを取りだして確認する。間違いない。カシミヤでできているこのセーターはとても暖かいらしく、夫は寒いときは必ずと言っていいほどこれを着ていた。
ちぎれたボタンとセーターがまるで今の私と夫みたいに感じられて、私はそっとセーターの表面をなでた。小さな針と糸でセーターは修繕できても、人間関係はそうはいかないのだ。
(針と糸、探そう)
押入れの中からのろのろと裁縫箱を引き出す。どうせ、別れるという選択肢はないのだ。春には赤ちゃんが生まれる。その意味するところを私は重々承知していた。初孫を心底楽しみにしているお互いの両親の顔も、それには含まれている。使命感とでも言うのだろうか。結婚という契約の重みが私にギシギシとのしかかっている。
玉結びに何回か失敗してから、針に糸を通す。ボタンを縫い付けるだけだから、数分もかからない。あっという間にセーターは元の姿を取り戻した。つけっぱなしだったテレビからは天気予報が流れている。明日は雪らしい。
その時ガチャリとドアが開いた。夫だ。靴も脱がずに玄関に直立不動したそのさまは、最後の審判を待つ罪人のようだ。彼は、天国の門をくぐる資格があるかどうか自分で決めかねているのだった。
さて、私の取るべき行動は?
沈黙を肯定ととった夫は靴をそろりと脱ぎ、四日ぶりに我が家に足を踏み入れた。私は慌てて顔をそむける。物わかりのいい妻にはなりたくなかった。ソファにどかりと腰をおろして、テレビを見ているふりをする。ちらりとリビングテーブルに目をやった夫は何故か満面の笑みをたたえ、普段のように私の隣に腰かけた。
「セーター、ありがとう」
「……ん」
私は夫の肩に頭を預ける。許したわけじゃない。お腹が重いせいでバランスがうまく取れないのだと自分に言い訳する。
夫は私の傍らでぶつぶつと謝罪の言葉を述べている。三木先輩にだいぶ絞られたようだ。私は披露宴で一度しか会っていないその人の姿をぼんやりと思い浮かべた。
テレビの天気予報はとっくに終わり、クイズ番組が始まっている。
(お腹空いたな)
壊れたスピーカーのようになおも謝り続ける夫をよそに、私は空腹を自覚した。そういえば、ここ数日はとにかく放心状態で碌に食べ物もとっていなかった。夫が帰って来てくれたことに明らかに安堵している自分を発見して私は少なからず驚いた。
(私たち、もうしっかり家族なんだわ。善かれ、悪かれ)
私は左手でそっと彼に触れ、そのおしゃべりを止めた。