選外佳作「ひととき 佐藤清香」
転がり落ちたボタンを見ながら「やってしまった」と思った。部長は私を睨み、言った。
「上司に暴力をふるって、ただで済むと思うなよ」
暴力をふるった憶えはない。むしろ、ふるわれたのはこっちの方だ。部長が新人の安藤さんを一時間以上も叱り続け、汚い言葉で罵倒したとき、いつものことと割り切って仕事をしていたはずの自分の「何か」が壊れ、
「いい加減にしてくださいよ」
人を助けるような器を持ち合わせていない男が立ち上がり、大声をだしてしまった。部長は、私の前まで来て
「お前、誰に言ってるのかわかってるのか」
そう言って腕を振り上げた。私は、その腕を掴み、部長と揉み合いになった。その時に部長のスーツのボタンがぷつっと取れた。黒いボタンが薄いグレーのカーペットに落ちてこの騒ぎのフィナーレを飾ったとき、私は、この流れに乗じて「会社、辞めます」と、それを言うことが決められていたかのように、自然にそう言ったのだった。
会社なんて辞めてみると、今までの悩みを忘れるくらいさっぱりとしたものだった。会社を辞めた後は、ひとり暮らしいいことに好きな時間に寝起きし、怠惰な生活を送っていた。今日も職業安定所へは行かず、ゲームのレベルを上げて、だらだらしていた。
「すいません」
玄関で声がする。扉を開けると、一瞬、誰かわからなかったが、手に持っている鞄についているうさぎのキャラクターで安藤さんだということに気付いた。
「えっな何? どうした?」
「あの、お礼がしたくて」
汚れた部屋に安藤さんを入れるのは躊躇われ、近くの公園へ行こうと促した。
安藤さんは牛によく似ていた。体は大きく動きが遅い。こんなミスがどうしてできるのだろうというくらい、仕事は出来なかった。
部長が毎日のように叱るのも無理はないと大半の人が思っていた。しかし、最近では、部長の叱り方が度を越えていて、安藤さんへの叱責は部長のストレスの捌け口になっているということも、大半の人が思っていた。
「驚いた。よく家わかったね」
「はい。調べました。あの、私のせいで、ほんとにすいません」
安藤さんは、急に泣き出した。公園にいる子どもたちやそのお母さんたちにじろじろと見られ、私は慌てて駅前の居酒屋へ誘った。
安いチェーンの居酒屋でビールを飲み、焼き鳥を食べた。安藤さんは焼酎をたらふく飲み、会社の上司と同僚の悪口をさんざん愚痴り、シメにお茶漬けをさらさらと胃に流し込んで帰っていった。安藤さんの後ろ姿を見ながら、お礼にきたのなら「奢ってよぉ」とつぶやいた。まぁそれも安藤さんらしいのだが。
次の日、私は早起きをして、職業安定所へ向かった。無職の現状を安藤さんんに同情されたのも嫌だったし「このままではいけない」とようやく私の体は動き出した。
職業安定所の帰りに、商店街を歩いていると、部長がいた。部長は、妻と思われる人とコロッケを食べながら歩いていた。私は気付かれないように歩いていたが、強い風が吹いた瞬間、目を閉じ、ゆっくりと開けた直後、部長と目があった。私は会釈をしたが、部長は「すっと」目線をはずして、雑踏に消えていった。私と揉み合いになったときに取れたボタンは、あの妻らしき人が、付けたのだろうか。苦い思いがこみ上げてきた。
夕方の群青色の空が商店街の賑やかさを引きたて、私は、なんとなくコロッケを買い、家へ向かった。その途中、飲料水のポスターに見覚えのあるキャラクターが描かれているのを見て、心にとまった。「どこかで見た」悶々と考えながら歩いていると、家へ着いてしまった。シャワーを浴びようと、風呂場へ入ったとき、石けんがないことに気付いた。新しい石けんを箱から出し「あ」と思った。石けんの箱に描かれている牛から、安藤さんを思い出した。それと同時に、ポスターに描かれていたキャラクターの正体も判明した。安藤さんの鞄についていたあの、うさぎだった
私はシャワーを浴びながら、部長や安藤さん、商店街での苦い感情も、排水溝に飲み込まれていくシャワーの水と同じように、流れて、忘れていくんだろうなと思った。
私の人生のひとときに登場した、あまり好感をもてなかった人たち。しかし私は、スーツのボタンやうさぎのキャラクターを、またどこかで見た時、きっと、彼らを思い出す。願わくばその時、穏やかな気持ちで、思い出せればいいと思った。
シャワーを浴びて、冷めたコロッケを頬張る。どこかで食べたことのある、なんてことないコロッケは、私の腹をゆっくりと満たしていった。