佳作「湖に行くつもりだった 石黒みなみ」
乗客はまばらだった。夏休みも終わったローカル線の普通列車である。駅の名がアナウンスされ、私は立ち上がった。列車はホームに止まり、ドアが開くのを待った。ところがドアは開かない。故障だろうか。外を見るとほかの車両のドアは開いているらしく、数人がホームを歩いている。そのうち開くだろうと待っていたが、ガタン、と音をたてて列車は動き出してしまった。うろたえていると、近くの座席に座っていたおじいさんに「お嬢さん、ボタンを押さんと」と言われた。見るとドアのそばに押しボタンがついている。しまったと思ったがもう遅かった。
しかたなく次の駅まで乗った。さっきのおじいさんがそばに来てボタンを押した。
「乗るときも自分で押さんとな」
お礼を言い、後について外に出た。おじいさんが出て行った改札口に駅員はいない。無人駅だった。時刻表を見ると引き返す列車は一時間後しか来ない。時間つぶしに外に出てもいいのかもしれないが、あたりには広々とした畑以外何もなかった。日の暮れかけた空をカラスが飛んでいる。列車を待っている人もいない。見回すと小さな待合室があったので中に入った。
湖に行くつもりだった。前に来たときは春で、降りそこなった駅から確か歩いて十分ほどのところだ。ここからは歩いて行けそうにもない。次の列車を待つしかなかった。
一人で待つ時間は長い。携帯電話を手にとったが、誰からも連絡はきていない。そう、私のことなど、気にかける人はいないのだ。私も誰にも会いたくなかった。携帯をバッグにしまった。そのうち日が落ち、真っ暗になった。あたりは静まり返っている。改札口と、この待合室だけが明るい。ふいに背後でばさっと大きな物音がした。ひっと声をあげ、椅子から飛び上がって後ろを見た。駅の外の暗闇の中で二つ、目が光っている。よく見ると大きな野良犬が駅舎の裏の藪で何かあさっていた。
じっとりと体が汗ばんできた。閉め切った待合室の中はエアコンがあるわけでもなく、蒸し暑いのだ。少し風をいれよう、とドアを開けたとたん、何かが飛び込んできた。慌ててドアを閉める。薄茶色のそいつは待合室の中を飛び回り、ガラスにぶつかっている。蛾だった。鳥肌がたった。あの鱗粉も、細かい毛の生えたぶよぶよのお腹もぞっとする。蛾は外に出たくてたまらないのだろう、羽音をたてて飛び、私の頭や顔をかすめた。声を上げてバッグで顔を覆ったが、蛾は飛び回るのをやめない。ついにめちゃくちゃに腕を振り回すと、バッグは手から離れて飛び、ガラスのドアに当たって落ちた。あたりは再びしんと静まり返った。見るとバッグの近くに蛾が落ちている。動かない。死んだのだ。死骸を見ないようにしながらそっと手を伸ばしてバッグを拾った。蛾の鱗粉がついているかもしれないと、見たがよくわからない。ティッシュを出してバッグを拭いた。
ガラスに何か当たる音がした。びくっとして立ち上がり、おそるおそる近づいてみると、何か茶色いものがびっしり群がっている。思わず飛びのいた。蛾が集まっていた。明かりを目指してやってきているのだ。床に落ちた蛾の死骸を外に出したかったが、これではドアを開けるわけにはいかない。こんなところで一人で待たなければならないのだ。
お願い、誰か来て。いや、いい人が来るとは限らない。殺人鬼や強盗だったらどうするのだ。こんなところに私はたった一人なのだ。体が震え始めた。早く列車がきてくれないと、と駅舎の時計を見た。それにしても、もう列車が来てもいいはずだ。遅れているのだろうか。都会ならすぐアナウンスがあるはずだが、無人駅だ。気がついて携帯を取り出した。遅延情報を確かめる。
「人身事故による遅延。現在、運転を全面休止」
事故の起きた駅付近での目撃情報などがたくさん書き込まれている。轢死体についての目を覆いたくなる表現が並んでいた。私は画面を閉じ、外の暗闇を見た。私だって飛び込むこともできたはずだと思った。
湖で死ぬつもりだった。春に二人で来たのに、彼は他の女を選んだのだ。同じ会社にいるのが辛くて仕事も辞めた。誰にも会いたくなかった。生きていくのが嫌だった。それなのになんだ。殺されるのは嫌だったのだ。それどころか、野良犬も蛾も怖かったのだ。私はもう一度携帯を見た。
「運転再開」
暗闇を照らすような明るい画面に文字が浮き出る。長い間その文字を見つめた。しばらくすると列車が駅に滑り込んできて止まった。急いで外に出て、列車に駆け寄りボタンを強く押した。ドアが開く。明るい車内で居眠りをしたり談笑している人がいる。私はその中に足を踏み入れた。