佳作「ノックアウトされたクマ 家田智代」
私は小六の娘、莉央と歩いている。具合が悪いようだと学校から連絡が入り、パートの仕事を早退して迎えにいった帰り道だ。
莉央は黙りこくっている。たぶん体調のせいではない。学校の居心地がよくないことは、なんとなくわかっている。それは構わない。今の世の中は不登校児に対して一定の理解がある。勉強は私が教える。小学校をあきらめて、中学から登校するという手もある。
そう伝えると莉央はいった。
「形だけ理解があるようなこといわないでよ。こうなったのは、みんなママのせいなのに」
「どういうこと?」
「ママが離婚したから。ひとり親で古い木造アパートに住んでる。それでクラスのみんなは、あたしのこと一段下に見るんだよ。で、いじめられる」
返す言葉がなかった。片親だから、暮らしに余裕がないからと人を差別するのは間違っている。が、そんな正論は役に立たない。
「なんで離婚なんかしたのさ?」
こちらも答えられない。莉央は生まれてすぐアトピーになった。重症で標準治療が功を奏さない。昼夜を問わず、かゆみで泣き叫び、顔といわず体といわず、かきむしって血だらけになった。ホコリやダニがいけないといわれて狂ったように掃除をし、毎日寝具を干し、カバー類を洗濯した。食事も原因のひとつといわれ、卵、牛乳、大豆、果ては米や小麦まで制限した食事を徹底した。
それもつらかったが、同居していた夫の両親から「うちの家系にそんな病気の者はいない」「米が食えないなんて日本人じゃない」などと責められるのが苦しかった。夫は「おれは親には何もいえない」という。
「女の子はどうせ出ていくんだし、早く次の子を産んで。今度こそ健康な男の子を」ともいわれた。幼児だから、こんな言葉を浴びせられても、にこにこ笑っていられるけれど、ものがわかるようになったら、どれだけ傷つくかわからない。
それで離婚した。病気で保育園に預けられない時点で会社は辞めていた。すべて莉央のためなのだが、そんなことはいえない。
口をつぐんだまま歩いていると、道端に黒いかたまりが落ちていた。それが、かすかに動いた。子犬? 違う、タヌキの赤ちゃんだ。あたりを見回し親を探すが、見当たらない。
子ダヌキは目を閉じている。鼻と薄く開けた口が乾いている。弱っているようだ。そばの電柱の上でカラスがカアと鳴いた。放置すれば死ぬのは時間の問題だろう。
「助けなくちゃ」私は鞄からタオルを出した。これでくるんで獣医に連れていく。
「だめ」と莉央に止められた。「罪になるんだよ。タヌキは野生動物だから。こないだ子グマを助けた人がネットでたたかれてた」
「だって放っておけないじゃない」
「獣医に連れてっても死んじゃうかも」
「ほっとかれて死ぬより、手を尽くされて死ぬほうが幸せだよ」
「そんなのママの自己満足じゃん。あたし、たたかれるの、やだ」
「どこにも書いたりしないよ」
「誰かが見ててツイッターにあげるかも」
「そんなこと気にしなくていい!」
思わず口調がきつくなった。目の前で小さな命が消えかけていたら、手を差しのべるのは当然ではないか。強く反発された。
「そんなんだから離婚されるんだよ!」
驚いて莉央を見た。私をにらんでいる。力が抜けた。精いっぱい頑張って育ててきたのに。この子のために生きてきたのに。どこで間違ってしまったのだろうか。涙が出そうになるのをこらえる。
「やっぱり放っておけないから」
私はのろのろと子ダヌキに近寄り、タオルで包んで抱き上げようとした。
「気をつけて。かむかも」と莉央。え、心配してくれる? と、とまどいつつ「平気。こんなちっちゃい子にかまれたって」と答える。
抱き上げても、子ダヌキはぐったりして動かない。でも、まだ生きている。近くの獣医へと急ぐ。莉央は無言でついてくる。途中、私が抱く子ダヌキの頭を、そっとなでた。
少しほっとする。これが本来のこの子の姿。今は心がささくれ立っているだけ。
そういえば……。昔、ぬいぐるみはダニの巣窟だと医師にいわれ、手持ちのぬいぐるみを全部捨てた。ひとつだけ残したのは洗えるクマのぬいぐるみ。何度も洗ってぼろぼろになり、目も取れたが、新しいのはいらない、この子が好きなの、この子が大事なのと、莉央はクマを抱きしめて離さなかった。
目のかわりにボタンを縫いつけた。糸をバッテンに渡したので、ノックアウトされたみたいだねと、母子で笑ったっけ。
「大丈夫だよ。頑張ろうね」
私は子ダヌキにそう語りかけたが、本当は自分と莉央に対していったのかもしれない。