佳作「ぼたん園 いとうりん」
パートを終えた午後三時、家に帰りたくない気持ちは百パーセントに達する。会話のない家は崩壊寸前、いや、もう崩壊しているかもしれない。車を家と逆方向に走らせる。民家がまばらな山道で、このまま行方不明になってやろうかと、幾度となく考える。私がいなくなったら、あの家は間違いなく崩壊する。
古い木の看板が、目に飛び込んできた。黒い字で『ぼたん園』と書いてある。そういえば、牡丹の季節だ。薄紅色の大きな牡丹が、実家の庭で毎年咲いていた。花を見る余裕など、最近の私にはなかった。気分転換に行ってみようと、車を看板の矢印の方へ走らせた。
広い日本庭園のようなものを想像していたが、コンクリートの小さな建物だった。この建物の奥に、きっと牡丹園が広がっているのだろう。中に入ると、薄暗い窓口から、顔半分が見えない老婆が「どうぞお入りください」と、しゃがれた声で言った。個人の家の庭を、この時期だけ開放しているのだろうか。私は、遠慮なく扉を開けて中へ進んだ。
色鮮やかな牡丹園を想像していた私は、その部屋に面食らった。中に展示してあるのは、どこにでもある洋服のボタンだった。確かに『ぼたん園』とひらがなで書いてはあったが、駄洒落? おやじギャグ? あまりのお粗末ぶりに笑うしかなかった。さっさと進んで出ようと思ったとき、受付にいた老婆がいつのまにか、私の後ろにピタリと寄り添っていた。
「これが、あんたのボタンだよ」
老婆はそう言って、クリーム色の小さなボタンを指さした。
「あんたが、掛け違えたボタンだよ」
掛け違えたボタン? 私は、その小さなボタンを手に取った。すると目の前が急に明るくなり、賑やかな子供の声が聞こえてきた。
「ねえ、ママ、晩ごはんなに?」
私のスカートにまとわりつくのは、娘の実花だ。今は十三歳で、大人を小馬鹿にしたようなことしか言わない実花が、まだあどけない幼稚園児だ。「ぼく、ハンバーグがいい」と、リビングに駆け込んできたのは、息子の聡だ。引き籠って誰とも口をきかない十六歳の聡が、ランドセルを背負った小学生で現れた。
「ママのハンバーグ大好き」
口を揃えるふたりの頭を撫でながら、私はおひさまみたいに笑っていた。
次のシーン。現れたのは、六年生の聡だ。
「ねえ、どうしても塾に行かなきゃだめ?」
「当たり前でしょう。私立中学を受験するのよ。学校の授業だけじゃ無理でしょう」
聡が好きだったサッカーを辞めさせて、塾に通わせた頃だ。夫が帰ってきて、ネクタイをゆるめながら言う。
「中学は公立でいいんじゃないか?」
「あなた何もわかってないわ。公立はいろんな子がいるの。いろんな事件もあるわ」
この地域の中学が荒れているという噂を、いくらか大袈裟に言い、夫を黙らせた。そこからだ。我が家が崩壊へ向かったのは。
聡は結局、中学受験に失敗した。サッカーを辞めたことで友達が離れたこともあり、中学へは一日も通わなかった。引き籠り、時々部屋で暴れることもある。
実花はその三年後に公立中学へ進んだが、噂ほど荒れた様子はなく、いたって平和な中学だ。実花はすっかり兄を馬鹿にするようになり、夫のことも、私のことも下に見ている。何よりいつも重い空気が漂う家を、心底嫌っている。
あのときだ。私がボタンを掛け違えたのは、聡の中学受験を決めたときだ。聡のためだと言いながら、果たして本当に聡のためだったのか。ママ友たちとの会話がよみがえる。
「聡君、有名私立に行くんですって?」
「聡君、成績がいいからね。羨ましいわ」
「そんなことないわ。勉強嫌いで困ってるのよ。でもほら、子供の将来を考えたらね」
ママ友たちの善望のまなざしが、上辺だけのものだと知るのは、聡が受験に失敗した後だ。今では誰ひとり、付き合いはない。
現実に戻った。薄暗い部屋で、私は黄ばんだボタンを握りしめている。先ほどの老婆が、私の肩に優しく手を乗せた。
「だいじょうぶ。まだ、だいじょうぶだ」
「大丈夫?」
「あんただって、反抗期のときは相当だった」
振り向いて見ると、老婆は私の母だった。親孝行のひとつも出来ぬまま、逝ってしまった母だった。
「まだ、間に合う?」
「間に合うさ」
涙を拭いて顔を上げると、もう母はいなかった。ぼたん園もすっかり消えていた。
手のひらに残ったボタンを握りしめ、私は歩き出した。今夜はとびきりおいしいハンバーグを作ろう。聡のために、実花のために、夫のために。時間はかかっても、きっと間に合う。ひとつづつ、ボタンをかけなおそう。