佳作「さようなら 安藤一明」
大野京子は、ずっと不安で堪らなかった。
中学生一年になる、一人息子の友斗のことが原因だった。
友斗は、今年四十五歳になる夫、雄介との間にできた初めての子供だった。雄介との関係は、今では冷え切っているが、友斗の存在が鎹になり、夫婦の関係は何とか続いているのだ。雄介なんていなくなっても構わないが、友斗がいなくなったら、自分はおかしくなってしまうだろう。
京子も雄介も、友斗を溺愛した。特に京子は、友斗の欲しがるものを何でも買い与えた。どんなわがままも認めてきた。
友斗が五歳くらいの頃、鉄道模型のセットを欲しがったことがあった。その鉄道模型は、かなりの金額だった。雄介の稼ぎから言えば、鉄道模型は明らかに高嶺の花だった。しかし、おもちゃ屋の店頭で、友斗がじっと鉄道模型を眺めている姿を見た京子は、家計のことも忘れて、雄介にお金を出すように懇願した。雄介の稼ぎは、決して多いほうではなかったが、反対もされなかった。一人息子のために、数万円の鉄道模型のセットを二人は買い与えたのだ。
友斗が中学校に入り、京子は強い不安を感じることが多くなった。思春期になった友斗が恋人を作ることを極端に恐れたのだ。
こんな想像をする。ある日、息子が可愛い女の子を連れて来るのではないか。そして、息子は、その女の子の言いなりになってしまう。女の子は言うのだ。
「ねえ、友斗。私とあなたのお母さん、どっちが大事?」
友斗はすぐに答える。
「もちろん君だよ」
「じゃあ、自分の家を捨ててでも、私についてきてくれる?」
「ああ、もちろん」
そう言って、友斗は置き手紙を残し、家を出るのだ。
友斗が自分の元から去ってしまうのではないか。京子は、ずっとその不安に苛まされていたのだ。
京子は毎日、近所のスーパーへ買い物に行く。ほんの二十分たらずの時間だ。しかし、その二十分の間も不安だった。
こんな想像が頭をよぎってしまうのである。買い物袋を提げて、家に帰る。すると、テーブルに置き手紙がある。
「お母さん、さようなら。僕は愛する女性と暮らすために出て行きます。お母さんもお元気で……」
京子は買い物から帰ると、必ず置き手紙がないか確認する。そして、息子がちゃんと家にいるのか確かめるのだ。
友斗が部活で遅くなる日は、心配で胸が張り裂けそうになる。友斗が何食わぬ顔で帰宅すると、心は安堵で満たされるのだ。
ああ、私の愛する息子。どこにも行かないで。いつまでも、お母さんの元にいて……。
自分は、少しおかしいのかもしれない。そう思うこともあるが、やはり息子への溺愛は変わらなかった。友斗さえいれば、他に誰もいらない、とさえ思う。夫に対しては、結婚当初ほどの愛情は感じられないから、死のうが生きようが、どっちでもいいとさえ思う。でも、友斗だけは手放したくないのだ。
京子にとって友斗は、自分の命以上に大切な存在だった。
京子は、いつものように買い物に出かけた。帰り道も不安でいっぱいだった。友斗の置き手紙があったらどうしよう。友斗が帰ってこなくなったらどうしよう。
帰宅すると、リビングのテーブルの上を確認した。テーブルの上には、一枚の紙が置いてあった。
恐る恐る、紙を取り上げて読んだ。手が震えてしまう。
「さようなら、出て行きます」
京子は一瞬、時が止まったように動けなくなった。
しかし、すぐに表情が明るくなった。京子の顔に笑みが浮かんだ。思わずガッツポーズを取ってしまう。
「やったわ。私の願いが叶った。ついに出て行ったのね」
置き手紙は、別れのメッセージだったが、京子は喜んだ。
これで私の思い描いていた生活ができるのだ。
京子は、もう一度、メッセージの主の名前を確認した。
別れのメッセージの最後に書かれた一行、それは「雄介より」というものだった。