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佳作「階段の底へ 九人龍輔」

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作文・エッセイ
結果発表
TO-BE小説工房
第11回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「階段の底へ 九人龍輔」

昭和の中頃に建てられた木造家屋で、住んでいた人間がおそらく一度も家の手入れをしたことがないというのは、この荒れ果てた様子を見ればどうも本当のことなのだろう。半ば崩れ落ちた門をくぐっておままごとくらいならできそうな庭に立つと、枯れ果てて今は何の草木かもわからない植物の成れの果てが土の上に埃のように転がっている。その様がこの先数年後の自分の姿であるかのように思われて顔がゆがむ。伝手を頼ってようやく市から請け負ったこの家の遺品整理の仕事も、報酬はたぶん右から左へと消えてゆくはずだ。

「ひどいでしょ。それでも一か月前まではここに住んでいたというんですからね」

先に家の中に足を踏み入れた案内役の市の職員が、足元に気をつけながらちょっとこちらに顔を巡らせて言う。

「見つからないままなんですか、その人」

そう尋ねると、職員は薄く笑った。

「ええ。煙のように消え失せたって、ああいうのを言うんでしょうね」

もうそれなりの年齢だったというこの家の住人が忽然と姿を消したあと、野良猫や近くの族あがりのワルどもの溜まり場になっていて怖いし迷惑だと近隣からの苦情を受けてようやく行政が重い腰を上げ、今日のこの整理と探索になった。遺品整理と言われても、だから住人のその男が死んだかどうかもわからない話なのだ。

小さな電子音が鳴って職員が胸のポケットを押さえた。

「ああ、課長からだな」

つぶやくように言ってから携帯電話を取り出すと、入りかけた家の中から回れ右して職員は出てしまった。

「先に入っていてくれますか。ちょっと、電話が……あ、課長、あ、はい、はい」

そこまで言ってもう先方との遣り取りに移ってしまう。

外は夏の暑気も消えやらぬ陽気だが、家の中に踏み入ると季節が変わったのかと思えるほど空気がひんやりする。何の残骸かもわからない木の切れっ端を踏みながら奥に入ってゆくと、首のもげかけたビニール製らしき女の子の人形が転がっている。途端に、妻とともに出ていってしまった幼い娘の記憶がよみがえり、胸が張り裂けそうになる。もうあの愛らしい顔を見ることもないかもしれない。

なんとか原型だけは保たれている書き物机の上に、それだけ妙に新しい薄いノートが一冊置かれてある。不思議と興味をそそられ手に取って開くと、最初のページにただ一行、「さようなら。もう、階段の底へゆく」とある。意味が取れない文章だが、ほかには何も書いていない。家を通り抜け裏庭まで進む。割れたトタン板が倒れていてどかせると、そこに階段が現れた。いや、階段と言ったのはここの住人が残したらしいそのノートに階段の文字があったからそう思ったのだが、それは普通の意味での階段ではなかった。土を掘り返し、多分素人がスコップか何かで踏み固めて降りてゆくためのいびつな段差を作っただけの、それは穴だった。ただ底は深そうでここからではその先に何があるのかわからない。段差をたどってゆけば降りて行けそうだが。

やはり階段とはこのことに違いない。この家に住んでいたその男は、自分で土を掘り階段を作り、降りていったのだ。

でも、どうして。

不意に、その見ず知らずの男のことが、そのこころのありようが、ありありと見えてくる。もうこの世にはなんの未練もなかったのだ。何の喜びも願いも希望もなくなったのだ。

だから男はこうやって自分で穴を掘り、自分で階段を踏み固めてこの下に降りていったのだ。

ならこの下はどこへ通じているというのだろう。

自分の今の生活が思い出されてくる。返せる当てもない金のこと、失った家族のこと、帰ってみても冷蔵庫すらない一人暮らしの暑苦しいアパートの一室にひとにぎりのゴミのようにうなだれて座り続ける情けない自分自身の姿。

額から生ぬるい汗が一筋、流れ落ちてきて目にしみる。

あのノートにあった「さようなら」とは誰に向けた言葉なのだろう。ここの住人は誰に別れを告げたのだろう。

気がつくとわたしの片方の脚はもう階段の最初の一段目を踏んでいる。

振り返っても誰の姿も見えない。空は空虚なほど青く高く、どこか遠くから、電話口でからからと笑うあの職員の声が聞こえてくる。

「さようなら」

囁くような声も聞こえたが、どうやらそれはわたし自身の声のようだ。