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佳作「時守り 鶴田千草」

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作文・エッセイ
結果発表
TO-BE小説工房
第12回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「時守り 鶴田千草」

前を歩いていた娘が足を止め、辰巳を振り返った。細い腕を上げて前方を示す。

「あの道を入って少し登ると淵があるの」

「そこには苔が生えているんだね」

娘は辰巳を見上げた。

「本当に連れていってくれるの」

「もちろんさ。必ずハギノさんを迎えに戻ってくる」

ハギノは辰巳の顔をじっと見つめたあと、小さくうなずき、再び歩きだした。

辰巳は、麓よりもずっと早く色づき始めた森の中を身軽く歩いていくその華奢な後ろ姿を眺めた。左右を前で合わせて細い帯を締める膝下丈の着衣を着て麻布で編んだ草履をはいている。最初見たとき、いったいいつの時代なんだ、と驚いたが、この村ではごく普通に着られている普段着兼仕事着だ。

ハギノの言うとおり、山道を五分ほど登ったところに淵はあった。澄んだ水に秋の西日が光の筋になって斜めに射し込み、どれだけ深いのか底はまったく窺えない。さざ波に洗われる岸にはびっしりとビロードのような苔が生えていた。

辰巳は急いでかがみこみ、小さなナイフを使って苔を採集して数個の小瓶に入れた。これで詳しい分析ができるだろう。

この苔はこの村の固有種で、薬学的有効性が注目されるようになったのはつい最近のことだ。辰巳はこの苔の成分を使った新薬開発に携わる研究者で、調査のためにしばらく前からこの村に滞在していた。ハギノとは森で調査中に出会い、その後たびたび二人で会うようになった。ハギノは代々村の巫女を出す旧家の娘で、今日は苔の生息場所に案内してくれるように無理に頼んだのだ。

苔が生えている淵の辺りは聖地とされていて、余所者はもちろん村人さえもむやみに近づくことは許されないそうだ。ハギノの自分に対する思いはわかっていた。わかっていてそれを利用した。多少気がとがめたが仕方がない。自分にはこの苔を持ち帰って研究する義務があるのだ。

その替わりといってはなんだが、街に帰るときにはハギノを一緒に連れていくと約束した。しかし、辰巳はその約束を守るつもりはなかった。ハギノは確かに可憐で美しい。しかしそれは、この時の流れから忘れ去られた村にいるからこそだ。きっと街では、その魅力は野の花が萎えるように色褪せてしまうにちがいなかった。

いつの間にかハギノが後ろに立っていた。

「この淵にはどこからかずっと水が流れ込んでいるんだけど、流れ出す川はないの」

ハギノは淵の向こうを指差した。

「あそこに堰があって、水門を開けると淵の水が下の谷に流れるようになっていて」

ハギノはためらうように言葉を切った。

「月が二千の満ち欠けを繰り返すあいだ、水は流れ込み続ける。二千たび目の満月が登る夜に、水門を開けて淵に満ちた水を谷に落とすの。それが巫女の務め。私たち巫女の家の女は、自分の代で開けることがないとしても、その務めをずっと伝えてきた」

二千回の月の満ち欠けというと、およそ百六十五年くらいだろうか。この淵は百六十五年の時を刻む巨大な水時計で、ハギノたち巫女はその守り人というわけか。

「水門を開けなかったらどうなるんだ」

「水が流れて堰が決壊し、この辺り一帯、村も水没する、って聞いた」

ハギノは薄暗くなった空を見上げた。夕闇の中、白い横顔が美しい。

「いいことを教えてあげる。今夜は満月よ。前に水門が開けられてから二千たび目の」

辰巳はさっきより水かさが増えてきている淵の岸に目をやった。

「水門を開けるのか」

「いいえ」

ハギノはどこか楽しげに答えた。辰巳をじっと見つめている。

「なぜ。何を考えている。村が洪水になるぞ。早くしないと」

辰巳の声がかすれた。

「村が沈んだらあなたは帰れない。ここにずっといてくれるでしょう? 私と一緒に」

息をのんで後退さる辰巳にほほえみかけ、ハギノは歌うようにささやいた。

「私を連れていくなんて嘘。ここを出たらあなたはもう二度と帰ってこない」

最後まで聞かずに、後ろを向いて走り出そうとした辰巳は腰の辺りに鋭い痛みを感じてよろめき、片膝をついた。見ると脇腹にさっき苔採集に使ったナイフが刺さっている。

「私たちは淵と月が刻む時の流れに何百年も縛りつけられてきた。もうたくさん」

娘の声は怖いほど落ち着いていた。辰巳はハギノを見上げた。両手を血で染めた娘の背後に、大きな満月がかかっている。溢れた淵の水が、辰巳の足元を濡らし始めていた。