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佳作「時計 谷口正人」

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作文・エッセイ
結果発表
TO-BE小説工房
第12回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「時計 谷口正人」

あなたはどこにおいでなのでしょうか。

住吉大社の鳥居をくぐり、常夜灯の並ぶ参道をすこし進むと、朱色の欄干を左右に配する反橋が私を迎える。近づいて見上げると反橋は、雲ひとつない五月の空の中にあった。十年ほど前に訪れた時は、寒く曇った日であったから、これほど新鮮に橋を見ることがなかったのだと思う。老夫婦が両手で欄干につかまりながら、縦に並び上り始めた。平日の午後で参詣する人は少ない。八十は超えているであろう。上り切るつもりなのか。私はもう片方の欄干を頼りに上った。木で組まれた一段一段の踏み台の幅は足を掛けるには意外に狭く、用心しながら上ることになる。てっぺんで一息つき、松に囲まれた池を眼下に眺めていると、老夫婦が追いついた。二人とも休むこともせず、無言で本殿側に下り始めた。反橋を渡るだけで祈願が叶うのだという。

私はポケットから時計を取り出した。古いステンレス製の腕時計。丸く分厚く重い。ガラスには無数の傷があり白い時計板を濁らせている。先ほど、大社近くにある昔ながらの時計屋で修理を頼んだが断られた。

「東京で、大手の時計店が入ってるデパートや古い時計屋も回ったんやけど、部品があらへんいうてみんな断られてしまいましたんや。元々この辺に住んでたんで、もしかしておたくやったら修理してもらえるんやないかとおもて寄りましたんやけど」

「わざわざ持ってきてもろて悪いんやけど、東京の時計屋さんがいわはるとおりで

どこ行ってもこの時計を直す部品はおませんわ」

「やっぱりあきませんか。しゃあないなあ。ありがとう」

私が十歳の時に父は亡くなり、まだ父が買って真新しかったこの時計は形見という意味もあり私の左手首に馴染むこととなった。私は風呂に入るとき以外はこの時計を身に着けていた。特に思い入れがあったわけでもなくいつの間にかそれが習慣となっていた。ほぼ十年間、時計は私の左腕で動いた。私が大阪の大学を卒業し、東京に行くことになったころ時計は動かなくなった。ちょうど就職祝いにと新しい腕時計をもらい、なんの躊躇もなく付け替えた。東京へは動かなくなった時計も持っていき、机の引き出しにしまっておいた。何度か東京で転居したが、その度に壊れた時計を持って歩いては引き出しにしまった。なにかの拍子に引き出しを開けると、時計を取り出し、父のことを想うこともあった。父の思い出はこれといってない。国語の教師をしていた。文学好きであった。予科練生であった。案外気が短い人であった。父と親しかった叔父から何度かそのようなことを聞いていた。十歳までのおぼろげな父の記憶と叔父からの話で、私の片隅に父親が住んでいたようだ。

年末片づけをした。大阪を出て四十年たったと思いながら、さて引き出しの時計を修理に出そうと思い立った。東京の心当たりはそこそこに住吉大社の近くの時計屋を思い出し、久しぶりに反橋を上ることになったのだ。

反橋の上で時計をぼんやりと眺めているうちに、背後に賑やかな声と多くの人が上り下りする気配を夢心地に感じた。私も父に手を引かれ、そんな中を何度かこの反橋を上った。私には本殿側に下りたところに楽しみがあった。反橋の袂には大きな楠の神木があり、太い根っこが地上にそそり出ている。子供たちにとって、その根っこが作り出した輪を潜り抜けることがここに来る楽しみであった。反橋を早く下りようと父の手を引っ張った。ご神木でひとしきり遊んだ後、いつも本殿で参拝した。

「一番奥がほんまの社やで」ここに来るたびに父はそう言って、四体ある本宮の内必ず奥の社を参拝した。そのあと白い神馬を見たいと私がせがみ馬舎に行くのが決まった順路であった。その起点となる反橋の上で、一度父が動かなくなったことがあった。楠の神木で遊びたい一心の私が押しても引いても動かない。私が今いるように、父は橋下の池を見ていたように思う。父を知る叔父から、そういえばこんなことを聞いたこともあった。

父の母は実母ではなかった。父を生み間もなくして実母は亡くなりその妹である叔母が母となった。父が生まれた昭和の初めにはそうようなことは頻繁ではないにしてもあったことらしい。文学好きの父は川端康成の「反橋」も知っていたであろうから、この橋を上り下りする折に母と自分のことを想うこともあったかもしれない。

ぼんやりしていた私の手から、するすると時計が離れ池に落ちた。しまったと思ったが波紋が池に広がっていた。時計を落としたのが意識してなのか無意識であったのか私も知らないが、その時橋の上に佇む父をありありと思い出す気がした。池の底で時計がしばらく動いたような気がした。