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佳作「秘密 柳瀬オト」

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作文・エッセイ
結果発表
TO-BE小説工房
第14回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「秘密 柳瀬オト」

あの日、僕は見た。

吹き付ける熱風と。のた打ち回るような生への渇望を叫ぶ、クマゼミの声の中。

小学校のグラウンドの端で、夕日に向かって少し距離を置いて立つ、一組の男女がいた。

先生と、見知らぬ男。

男に背を向けた先生の、地面に長く伸びた影が一部、ベンチにかかっていた。ベンチのすぐ脇に立っていた男が、ひざを折る。男は茶色い先生の影を、そっと撫でた。

そして、彼は影に、口づけた。

まるで、神聖な儀式のように。

先生の名前は日置喜代子という。半年前に新任教師として、山にへばりつくようにして建っているこの山野小学校に赴任してきた。

枯れたススキや干した柿ばかりに見える先生達の中で、桜がよく似合う美人だと、生徒から熱烈に歓迎された。かくいう僕も、家の手伝いで学校に遅れて、男の先生から竹刀で背中をぶっ叩かれた際、体を張って止めてくれたときから、日置先生には一目置いている。

日置先生は、よく笑う先生だった。そして、どんな家庭環境の生徒にも平等に接してくれた。それが、どんなに心強いことだったか、きっと他の先生は知らなかっただろう。

専門の教科は国語で、教え方は厳しかった。日本語を正しく使える人間になれば、日本人としての誇りが身に付きます、というのが先生の主張だった。日本人としての誇りって、何のことかよくわからなかったけれど、先生の授業は真面目に受けた。先生に嫌われたくなかったからだ。他の生徒も、日置先生の授業はサボらずに黒板と睨めっこしていた。

何が言いたいか、というと、だ。

日置先生は、学校一の人気者だったのだ。

僕だけじゃなく。

「ひ、日置先生」

放課後、三年生の花壇に散水していた先生に声をかけた。振り返った先生を見て一瞬、呆けた。美人だ。こんな田舎には不似合いな、本から抜け出してきた切り絵のようだった。

「どうしました、興梠君」

口元に笑みをはいて、先生が立ち上がる。

「あ、僕、昨日見ました。あの人、誰ですか」

日置先生を前にすると、上手く喋れたためしがなかった。喋りたいと、腹の底から思っているのに。悔しいことに、己の肝の小ささは、幼少から少しも変わらないのだ。

先生は丸い目をさらに丸くした。そして、口の中で何かを呟く。耳障りな蝉の声。先生の声は聞こえなかった。

「あの人、先生の影に、その、く、く、口づけ、してました。知って、いました、か」

選ぶ間もなく、口から言葉が零れ落ちる。

最初は黙っていようと思ったのだ。でも、一晩考えて、あえて先生に聞く道を選んだ。

僕は日置先生とあの男が直接話をしているところを見たわけじゃない。先生の影に口づけた後、男はその場を去っていった。一方、日置先生は彼に背を向けたままだった。

もしかして、あの男は、先生の知り合いではなかったのではないか。だとしたら、一方的に日置先生に好意を寄せ、小学校まで侵入してくる危険人物なのかもしれない。

「だから、一応、か、確認、しといたほうが、いい、と思って」

いや……そんなのは建前だ。先生のためを装って、本当は先生と喋りたかっただけだろう。先生と秘密を共有してみたかっただけだろう。そう、もう一人の僕が心の中で叫ぶ。

汗が額を伝う。脂汗なのか、強い日差しに噴き出る汗なのか、よくわからない。生ぬるい風が僕と先生の間をぬって走った。

「心配しなくても、あの人はもう来ません」

日置先生がぽつりと言った。

「ど、どうして、そう、言えるの、ですか」

食い下がったのは、ただひたすらに僕が納得できる答えがほしかったからだ。しみったれた人間にできる、最後のあがき。

その時の、日置先生の顔を、僕は一生忘れないだろう。

「あの人は、兵隊さんになって遠くへ行くんです。お国の、誇りのために……遠くへ」

透明な雫が、?にまっすぐ影を落とした。

八月十五日。戦争が終わった。

それから間もなく、日置先生は結婚した。

あの日、蝉の声降りしきるグラウンドで、愛おしそうにその影に口づけた男が、軍に召集されたのは終戦半年前の出来事だった。

影ではなく、先生本人に口づけが叶った男に、僕は小さな拍手を捧げた。