佳作「混線 あまのかおり」
夏なのにひんやりとした雨が降っている。
わたしは営業用資料の入った鞄を小脇に抱え、駅舎の軒先から曇天を仰いでため息をついた。若手が急に退職したため、本来の持ち場ではないローカル線沿いの田舎町に来る羽目になってしまい、最寄駅に降り立ったのはいいが駅前のロータリーには車もなければ人影ひとつない。
タクシーは待機していると聞いていたのに――わたしは周囲をうろつき、駅舎の隣のバス待合所の中に「タクシー呼び出し電話」という古びた張り紙と、その下の台に置かれた黒電話を見つけた。ケータイどころかスマホの時代にまさか、こんなものが。
受話器を取って9を回せというので、半信半疑でダイヤルを回した。電話はぷぷぷと音を立てた後、ちゃんとタクシー会社につながったらしく、「はぁい、すぐ車回しまーす」というオバチャンのガラガラ声が耳をつんざくと同時にガチャリと切れた。田舎のスナックを一人で切り盛りしている、喉を酒焼けした大柄なママ、という姿が想像された。
やれやれと思いながら、わたしは鞄を右手に持ち替えた。太陽光パネル設置のための営業がわたしの仕事だ。一時期、田舎の空き地にパネルを置くだけで儲かる、ということになって爆発的に売れたが、既にそのピークは過ぎて下り坂、なかなかうまくいかないのが現状だ。それでいてノルマだけは以前と変わらず厳しいため、若手社員が音を上げて次々と辞めていくのも無理はない。
自分が今の仕事にしがみついているのは、六十を前にして次が見つかるとは思えないためで、あと少し、家のローンを返すまでは年下の上司の元で黙って働くしかない。これまでずっと勤めてきた会社を三年前に倒産で失い、一時は路頭に迷い、やっと得た仕事も神経をすり減らすばかり、いったいこの運のなさは何なのだろう――。
ぼんやりと自分の身を恨んでいると、突然後ろの待合室で黒電話が鳴り響き、わたしは驚いて振り返った。わたしの他には誰もいない。タクシー会社からの連絡だろうか、と思いながら受話器を取って耳に当てる。相手の声が耳に飛び込んでくる。
「――もしもし?」
それはオバチャンのガラガラ声ではなかった。わたしは息を飲んだ。忘れようにも忘れることのできない声。三年前に他界した母の声だった。
認知症を患った母を幸いにも施設に預けることができ、わたしは母の存在に目を向けぬようにして仕事に没頭した。母が亡くなった時は遠方に出張中、危篤の知らせにも予定を変更することなく、結局死に目に会えなかった。母への冷たい仕打ちの報いによる罰を受け、あれ以来、自分は不運の中にいるに違いない――と本気で考えてしまうほど、わたしの中に母のことは大きな棘となって刺さっていた。
わたしは震える声で、もしもし、と返した。亡き母からの電話などありえない、と頭の冷静な部分では思いつつ、だが、それは確かに母の声だったのだ。
「ああ、タダシ、どしたね」
母は元気だった頃のように極めて無愛想ぶっきらぼうに言った。もしもしと聞いただけで息子の名を呼ぶなんて、これが生きている母ならばオレオレ詐欺に引っかかるのを心配しなければならないところだ。が、今はそんなことはどうでもいい。
息を大きく吸って、叫ぶ勢いで問う。
「母さん、俺のこと怒ってる? 恨んでる? ごめんな! ほんと、ごめん!」
ずっと言いたくて言えなかった言葉を吐き出して、すがりつくように受話器を握りしめた。母から返ってくる言葉を、恐れながら待った。
少し戸惑ったような沈黙の後、母は言った。
「あんた、何言っとるん? 何も怒っとらんが。どしたんね、ほんま、しっかりしんさい」
母の言葉が切れたところでぐちゅぐちゅと混線の音が響き、タクシー会社のオバチャンの大きな声に取って代わった。
「すいませーんお客さん、車出払ってて、ちょっと待っててくださーい、五分くらいで行きますから」
わかりました、と努めて冷静に答えて、わたしは震える手で受話器を置いた。
母の言葉を耳の奥で抱きしめるように反芻する。何を運がないとか、罰を受けているだとか、くだらないことを言って人のせいにしているのか。しっかり、生きろ。母はそんな風に言いたかったに違いない。
わたしは顔を上げて深呼吸した。
雨は小止みになり、周囲に昼の光がうっすらと降りてきた。