佳作「つながる 不動坊多喜」
扉を開けたとき目に飛び込んできたのは、老女の遺体だった。布団の上で、亀のように体を丸めている。旧式のダイヤル電話を大切に抱え込み、右手には受話器をしっかり握りしめ、微笑みを浮かべ固まっていた。
「道理でつながらないはずだ」
思わず漏らした言葉に、隣で硬直していた大家さんもうなずいた。
「生活切り詰めても、電話代だけは払ってましたからね」
三年前、彼女は警察に捜索願を出した。息子が帰ってこないと。私がその担当だった。
息子の秀一は経営の才があり、父が遺した雑貨屋を大きな店にしたらしい。ところが、信頼していた取引先が不渡りを出し、夜逃げした。保証人として大きな借金を抱えてしまい、土地家屋は全て処分。何とか返済したものの、嫁は実家に帰ってしまった。子どもがいなかったのが、良かったのか悪かったのか。
そんな噂を聞きつけて、中学時代の友人が、一緒に仕事をしないかと連絡をくれたらしい。地方の大学に進学し、その土地の人となり、今は小さいながらも工場を経営、特許も取って順調だと。
「それでね、出かけたんですよ。二泊三日の予定で。携帯を持って。ええ、レンタルですよ。でも、携帯ぐらい持ってないと、格好つかないじゃないですか」
その友人から電話が来たのが、四日目の夕方。何時になったら来るのだと。びっくりして携帯にかけてみたものの、つながらない。そこへ、今度はレンタル会社から連絡が入った。期限が切れたので電話機を返してくれと。それで、慌ててここへ来たのだと。
大の大人のことだ、心配は無いと思いますが一応調べてみましょう。
そう答えて足跡を追ってみた。
秀一は、鈍行列車を利用していた。夜更けに、友人の住む街で降りたことまでは確認できた。しかし、消息はそこで途絶えた。
学年で一番だったという秀一と、いつも彼に宿題を写させてもらっていたという友人。立場の逆転に耐えられず、あるいは人間不信に陥って、ホームレスを選んだのかもしれない。最悪、死に場所を探しに行ったかも……。
私の懸念が伝わったのか、彼女は毎日のように警察にやって来た。捜査は進んだかと、秀一は見つかったかと。遅くにできた一人っ子で、親思いの子だから、必ず電話をくれるはずだと。その度に、見つかったら一番に連絡しますよ、と約束して帰ってもらった。
「お願いしますよ。夜中でもかまいませんから。枕元に電話機を置いて、待ってますから」
そう言って、背中を丸めて帰って行く。その後ろ姿と現状が重なって、瞼が熱くなった。
死体を調べていた同僚がつぶやいた。
「死後、三日は経っているだろうなあ」
暖房のない北向きの部屋は、冷蔵庫さながらの寒さで、腐敗は余り進んでいない。
冷暖房なんて必要ないよね、衣服で調節したら良いじゃない。でも、あの子から電話が来るからね、電話が止められたら大変だよ。言葉通り節約に節約を重ね、毎月、基本料金だけを払い続けていた。死ぬ前に、いったい誰と話していたのだろうか。
そのとき、扉の影から控えめな声がした。
「あのぉ、三日前の夜のことですけど」
隣の部屋の女性だった。
「電話が鳴ったんです。夜中の、三時頃だったと思います。それで、目が覚めて」
安普請のアパートだ。薄い壁で、昼間でも隣の音が響く。夜中なら尚更だろう。
「そしたら、秀一かい、て。すごく大きな声で、嬉しそうで。ああ、息子さん元気だったんだ、よかったなあ、て……」
私は、思わず遮った。
「確かに、息子さんからでしたか」
「ええ。何度も名前を呼んでましたから。あと、今どこだい、とか、すぐ行くよ、て。その後、声が途切れて……」
たぶん、そのまま息絶えた。
婦人が帰った後、私たちは困惑していた。
一週間前、強盗で捕まった男がいた。余罪を追及していく中で、三年前、飲酒運転でひき逃げをしたという話が出た。供述の通り、山中から白骨死体が発見された。三日前だ。近くに埋まっていた携帯から身元が割れ、昨日連絡が来た。早速電話したが、何度かけてもつながらない。それで、様子を見に来た。
「そう言えば」と、同僚が話し始めた。
「秀一を調べた検死官から聞いたのですが、遺体安置所の電話を、誰かが使った形跡があったそうですよ。丁度、三日前の夜中に。何なら、通信先を調べてもらいますか」
「いや、いい」
母親は笑っていた。やっと、つながったと。
「それより、たまにはお袋に電話するか」
私たちは顔を見合わせ、うなずきあった。