佳作「無音電話 桜井直樹」
ブブブ……という強い振動できみは目を覚ます。目覚まし時計の電子音が嫌いなきみは、いつも携帯電話のバイブレーション機能を目覚ましかわりにしているんだ。
伸びをして目をこすり、振動していた携帯電話をオフにした。
それからきみはいつものように登校の準備をして家を出る。人気の少ない閑静な住宅街から出ると、駅前はそこそこに混雑している。
電車に乗って三つ目の駅で降りると、そこはもうきみが通っている学校の生徒と同じ制服を着た少年少女だらけだ。そこにいる誰に付いて行っても同じ方向へ向かう。学園前という駅名が付いているように、そこは学生たちが多い。
きみは学生鞄の中から携帯電話を取り出して耳に当てる。
「ああ、おはよう。うん、大丈夫だよ。そっちは相変わらず?」
通話の姿勢のままきみは学生の群れの中を流されるように進む。周囲に見知った顔もあったが、きみは誰と言葉を交わすこともない。まるで携帯電話での通話に夢中になっているように、周囲からは見えることだろう。
短い挨拶を残して、きみはまた携帯電話を学生鞄に戻す。なるべくポケットには入れないのがきみのルールなんだ。
それから教室に入って自席に着く。最初の授業の教科書を準備して、あとはチャイムが鳴るまでぼんやり窓の外を眺めて過ごす。
きみは誰にも話しかけないし、誰もきみに話しかけてはこない。そういうルールのある教室であるかのように当たり前に。
授業が四つ分終わって昼休みになると、きみはコンビニエンスストアで買った弁当とお茶を持って、中庭に出る。女子生徒が多い中、ベンチも芝生もないところに邪魔にならないように座る場所を確保して昼食を摂る。
冷めた弁当をゆっくりと食べても、三十分近く時間を持て余してしまうので、きみはまた携帯電話を取り出した。学生鞄に入れておいたものを、コンビニ袋に入れて持って来ていた。
「ああ、お昼ごはん美味しかった? そう、良かった。今日の授業は退屈でね」
表情一つ変えずに、きみは遠くにある藤棚を眺めながら会話をしている。ささやかでどうでも良いような話を二つ三つして、「それじゃあ」と言ってきみはまた携帯電話を仕舞う。
これから捨てるコンビニ袋に入れるわけにはいかないから、お昼時だけはきみは携帯電話を胸ポケットに仕舞うんだね。律儀に持ち歩いている生徒手帳と喧嘩して、ポケットが膨れてしまうのに、どうしてきみはそこに仕舞うのだろう。
中庭に立っている時計を見てからきみは、たっぷりと時間をかけて歩き、校内のゴミ箱に弁当とお茶の容器を入れた袋を捨てる。
教室に戻ると携帯電話を学生鞄に戻し、午後からの二時間を過ごした後は、所属しているクラブの活動もないものだから、さっさと校舎から出て行く。
乗ってきた電車の反対方向行きに乗って、きみはそのまま真っ直ぐ帰宅する。
家には誰もいない。ラップをかけられた夕飯がキッチンのテーブルに用意されているだけだ。きみは先にシャワーを浴びて、良い頃合いになると作り置かれた夕飯を温めもせずに食べる。
それから食器を洗って棚に戻し、キッチンは何事もなかったかのように静かになる。
きみは自分の部屋に入って、学生鞄の中身を翌日の授業用の教科書に入れ替える。与えられた宿題はその日中に済ませるのがきみだ。
そうしていると、やがて日は暮れて夜になる。時計を確認してからきみは、机の上に置いてある携帯電話に手を伸ばし、会話を始める。
「うん、大丈夫。平気だよ。元気でやってる。心配しなくてもいいよ」
短い言葉を紡ぐ間、きみの目は相変わらず遠くを見ているね。
一分も経たないうちに会話を終えたきみは、そのままベッドに潜り込む。そして翌朝の目覚ましの代わりにするべく、ようやく携帯電話の電源を入れるんだ。バッテリーはまだ九十八%の残量を示している。
今日もきみは誰とも話をしなかったね。電源を落とした携帯電話に話しかけていただけなんだ。きみの携帯電話には、発信履歴も着信記録も留守番電話のメッセージも残されていない。
それじゃあきみは誰と会話をしていたのかな?
相変わらず、大丈夫、心配しないでーーそんな言葉を、一体誰にかけていたんだろうね。
もしかしたらそうやって毎日自分自身を慰めているんだろう、きみという人は。
どうしてそんなに意地っ張りなんだい?