佳作「はやり病 菅保夫」
ひどく痩せた男だった。くたびれた背広の上からでも、その細い体がわかった。しかし顔色は悪くない。診察室に入ってきたその患者を医者はあいさつの声とともに観察する。歩き方、しぐさ、表情、声。
患者は四十九歳の男性会社員。体温、血圧正常。
「眠くてしかたないんです……」患者は睡眠障害を訴えている。問診を続けるうちにそれが普通の睡眠障害ではないことが明らかになっていった。夜ちゃんと床に就いても眠れず、明け方くらいにようやく眠れるが、朝目覚めることができないらしい。目覚まし時計をいくつ使っても、家族が声をかけ体をゆり動かしても、まるで麻酔をうたれているかのように眠り続ける。睡眠時間は段々と長くなり、今日は正午になってやっと目が覚めたらしい。昼夜が逆転してきているようだ。
「毎日同じ夢を見るんですよ」
「どんな夢ですか」
「草原で、ちょっと山のように盛り上がったところに風鈴が空からぶら下っていて、私は他の人たちと一緒にその風鈴をとりかこむように座ったり寝転がって、その風鈴の音を聞いているんです」
「風鈴ですか」
「はい、金属製のヤツで、とても良い音がするんですよ……」
患者の了解を得て脳のCTを撮った。しかし異常がない。腫瘍、血管の異常なし。脳の萎縮も見られない。血液、尿もほぼ正常。内科的に異常が見れられないとなると、内科医にはできることがない。医者は頭をかいた。
「ストレスは感じますか」
「ええ……、会社が今度大規模なリストラをするらしくて。当然ながら遅刻が多い私は候補リストの上にいると思うんです」
「それは大変ですね」
「実は去年結婚したばかりで、急に二人の子持ちになりまして……」
「それはそれは、頑張らないとですね」
「はい。それで思いきって夜の仕事に就いてみようかと、今就活中なんです」
医者は精神科の紹介状を書こうかとも思ったが、様子をみるように言って帰した。
それきりその患者が病院に来ることはなかった。しかし同様の症状を訴える人たちが病院に押し寄せたのである。風鈴と草原の夢も同じだった。その地域だけでなく、世界中でそれは起こっていたのだ。奇妙な出来事に学者たちが研究を開始し、原因と治療法を探したが誰もそれを見つけることができなかった。予防法もわからず、奇病の感染者はさらに増え続ける。
彼等の病状は日ごとに進み、やがて昼間に目覚めることができなくなっていった。日の出少し前に眠りに落ち、日が落ちきると目を覚まし活動を始めるのである。彼等の生活は一変した。同じ家族内でもその病にかかる者とかからない者がおり、赤子など手のかかる者が一人正常(またはその逆)という場合が問題となった。介護が必要な老人や病人、ケガ人も同様である。世の中は回らなくなり、世界は半マヒ状態におちいった。
一年ほど過ぎると問題のほとんどは解決していた。全人類がその奇病にかかったことで世界は平安を取り戻していったのである。単純に昼と夜が入れ変わっただけの話となり、その違いの中人々は普通の社会生活を繰り返す。外は暗くとも仕事へ学校へと一般的な毎日を続け、日常を取り戻したのだ。
日に当たることがなくなったせいで、本能的に人々は日光浴に飢えた。日焼けサロンなどに行くことがブームとなり、なかには外で眠るという強者もいたが、眠ったまま野生動物に食い殺される事故が頻発したことで、誰もやらなくなった。大型の肉食獣がいないところでもネズミやイタチなど小型の獣たちが寝ている人間をてっきり死体だとかん違いしたのだろう。その小さな口で時間をかけ、無抵抗な人間を死にいたらしめたのだ。
みんなが眠っている間に万が一災害が発生した場合を想定し、人間を非難、救助するロボットの開発が進んだ。世界中で様々なタイプが製造され、技術は日々向上していった。このロボットたちは農業や漁業、そしてあらゆる産業にも応用され無人化が進んでいった。
この奇病の治療法はいつまでも見つからず、また今までのところ自然治癒することもなく。
病状はさらに悪化していった。睡眠についやす時間は長くなり続け、人類はその人生のほとんどを寝て暮らすはめになってしまった。
人々は夢の世界であの風鈴の音を聞きながら、ただ目覚めを待ち続けるのである。