佳作「悲しい音色 和田保男」
加藤が章江の入院を知ったのは七月の初めのことだった。二ヶ月余りの長期出張から帰り、久しぶりにお店に立ち寄るとママが驚いた表情で加藤に伝えた。
「知らなかったよ。四月の末から長野で緊急事態があって、外部との連絡をする余裕のないまま東京を留守にしていたのだから……」
隅田川の満開の桜の下を章江と二人で歩いたのは四月初めの日曜日の夕方近かった。
章江が歩きながら時々小さな咳をしていた。四月とはいってもお日様の当たらないところでは結構冷たい空気に触れることもあるので、咳の一つや二つしても不思議はない。
この満開の花もあと一週間もすれば散ってしまうわね、と章江がなにげなくつぶやいた。『スナック野花』はテナントビルの二階にあり、七人ほどのカウンター席と四人が座れるテーブルが一つだけの、ママの美里と章江の二人だけでやっている小さなお店である。
お店ではお客との来店時の挨拶は、いらっしゃいませ、であり、帰る時には、ありがとうございます、あるいは、またお出かけください、と言うのが一般的である。
ところが、何回目かの時に、加藤が店のドアを開けると、章江は、お帰りなさい、という言葉で出迎えた。そして帰る時には、行ってらっしゃい、と言ったのである。加藤も思わず、行ってきます、と応えてしまった。
章江にとってはお店が家庭であり、加藤はその家族の一員というわけである。
それほどの常連客である加藤が突然何の連絡もなくお店に姿を現さなくなったのだから、出張中のことを知らなかったママの美里が心配していたのは当然のことである。
「ただの風邪だろうからといって近くの薬局で咳止めのお薬を買って飲んでいたようだけれど、どうもおかしいということで病院に行って精密検査をしてもらったのが確か五月の末だったわ。ところが検査結果が思ったよりも良くなかったようなのよね……」
入院したのは加藤の会社の近くにある総合病院であったが、肝心の病状についての詳細は、身寄りのない章江の親代わりとなっているママの美里を通じてお店でしか知ることができなかった。それほどまでに病状は悪化しているということであろうか。
加藤の足取りは重かったが、仕事で多忙な日々では結局どうすることもできなかった。かつて、妻と別れる最大の原因の一つとなった、会社の仕事最優先の生活が思い出された。取引先との打ち合わせと称して連日の酒席が続いた。午前様で帰ることは決して珍しいことではなかった。土曜日曜も接待ゴルフで家族との生活は全くなかった。このような生活が二十年以上も続いていた。さすがに妻も耐え切れず、成人している一人娘と共に夫のもとを離れる決断をしたのだった。
その日、加藤が営業先から帰る電車は朝夕の通勤時間帯でもないのにずいぶんと混雑していた。どうやら車両トラブルでダイヤが乱れているようだった。しかも空調までもが不具合のようで車内が妙に暑苦しかった。
隣に立っている若い女性の長い髪がまとわりついてきていっそう不快だった。背中には汗が流れて濡れていった。十五分ほど乗って改札を出ると、さっきの女性がすぐそばを歩いていた。あまりの暑さのせいとしか言いようがなく、加藤はその女性に声をかけ、会社に向かう途中にある喫茶店でアイスコーヒーを二つ注文していた。
初めて会った章江はすべてに新鮮で初々しかった。章江です、会社の帰りに気軽に立ち寄ってくださいね、と渡された名刺には『スナック野花』とお店の名前が記してあった。加藤が妻と別れて二年後のことだった。
その日を境に二人の中はまるで何かにとりつかれたかのように急速に親密さを増していった。多い時にはほぼ毎日通い、カラカラに渇き切っていた加藤の体に、章江のみずみずしい液体が急速に染み込んでいったのである。これ、お部屋につるしておいて欲しいの、かわいい音色がするのよ、私のこと忘れないようにね。初めて出会った日から一ヶ月後、お店で別れ際に章江が手渡してくれた小さな包みには可愛い風鈴が一つ入っていた。
加藤は妻と離婚してから、一人娘の律子と二人だけで何度目かの夕食を共にしていた。
「お父さん、元気そうで何よりだわ。実は私の会社で先輩が肺がんでつい最近亡くなったのよ。内緒で夜のお店で働いていたらしいけど、無理がたたって進行が早かったみたいね」
加藤は黙ってグラスの水割りを飲み干した。
夏も終わりに近い日曜日の夕方。
一人暮らしの加藤の部屋には風鈴の音だけが悲しく響いていた。