佳作「五億年後の刹那の出来事 柳瀬オト」
ひと気のない小学校の廊下を、幸笑(サチエ)はとぼとぼと歩いていた。世界は橙色に染まっている。目の前に迫るのは靴箱という名の、関所だ。薄暗いここを通りすぎれば、残された今日は否が応でも自由意思に託される。
「まだ残っている人がいるんですか」
六年生の靴箱の前でぐずぐずしていた幸笑の背後から、声がした。近づいてきたスリッパの音と呼びかけに反応しなかったのは、注意されればその分だけ、帰らなくてすむ理由ができると思ったからだ。
「どうしたの?」
俯いたままの幸笑を覗き込んだのは、見たことはあるけれど名前は知らない、おじいちゃん先生だった。一学年が六クラスあるこの小学校では、関わりのない先生の方が多い。
首にはループタイを締めた白髪頭の先生は、黙ったまま、幸笑の顔を見つめた。幸笑はその強い視線に、わずらわしさと、ほんの少しの期待を感じながら、思い口を開いた。
「なるほど。今日は君の誕生日なのに、お父さんもお母さんも仕事でお家にいないのか」
情感と身振りを加えて、幸笑は我が身に起きた不幸を訴えた。が、先生はいとも容易く、簡潔にまとめてしまった。
「お母さんは毎日残業。お父さんは出張で明後日じゃないと帰ってこない。毎年お祝いをしていたのに、今年は何もなくてごめんね、と今朝、お母さんに宣言されてしまった、と」
先生の口調は軽い。事の重大性を理解していない証拠だ。幸笑は唇を噛み、自分の汚れた上履きを睨んだ。
化粧をして、颯爽と出かける母は格好いい。父は今年、会社で昇進して盛大にお祝いした。
でも、と幸笑は思う。たった一人の子供の誕生日も祝えないほどの忙しさなんて、クソくらえ、だ。
「会社も仕事も残業も出張も、全部、全部、消えてなくなればいいのに……」
そうすれば級友に『パパもママも誕生日より仕事が大事なんだ、可哀想』などと笑われなくてすんだのに。その場の空気を読んで一緒に笑ってしまって、内心、猛烈な自己嫌悪に陥ることもなかったのに。
「君、これはね、三葉虫の化石なんだけど」
唐突に、先生が幸笑の目の前にこぶしを突き出した。広げた拳の上には、五センチほどの黒い石ころ。
幸笑は、ぱっと顔を輝かせた。
「虫がいる!」
石の表面には、黒い節足動物の模様があった。絵でも、彫刻でもない。不思議な芸術だ。
「そうだよ。約五億年前に生まれた、僕らの大先輩の生きた証拠だ」
五億年がどれほど遠い世界なのか、想像するのは難しい。去年のことだって、遠いのに。
先生は穏やかに尋ねた。
「この三葉虫の誕生日はいつだと思う?」
「誕生日? わ、わかりません」
「そうだろう?五億年も経てば、僕らの化石が残ったとしても、個体識別情報なんて忘れられているよ。」どうせ忘れられるものなら、特別に祝わなくても問題はない。違うかな?」
幸笑は目を瞬かせた。……なるほど。確かに、そうかもしれない。
新しい世界を発見した気分で顔を上げると、先生はぺろりと舌を出した。
わずかな間の後、幸笑は?を膨らませる。
「でも、私の誕生日は五億年後じゃなくて、今日なんです。お父さんもお母さんも、プレゼントもケーキもないんです」
危ない。遠くの星を見上げるのに夢中で、足元の井戸に気付かないところだった。誤魔化されてしまう前に気付いた自分に拍手、だ。
先生はポケットに化石をしまい、苦笑した。
「三葉虫が生きた時代には、ケーキも贈り物もなかっただろう。彼らより進化したはずの我々は、選択肢がありすぎるから、困るね」
いつの間にか、世界は橙から蒼に変わっている。遠くで窓が締まる音がした。室内を吹き抜ける風は、湿った夜の匂いがする。
背筋を伸ばした先生が、言った。
「ご両親やケーキはともかく、君は、一生分の贈り物を、もう貰っているでしょう」
「え?」
幸笑は、意味を掴みかねて首を傾げた。先生は唇を緩く引いた。
「名前だよ。君の親になったばかりの男女が頭を捻って考えるんだ。多くの日本人は、苗字が変わっても名前は生涯変わらない。君が一人で寂しくないよう、一生の友を、産まれた時に贈るんだ。君の名前は?」
「幸笑……幸せに、笑う」
「いい名前だね」
頷く先生に、幸笑は唇をかみしめた。
頬が熱い。嬉しくて、誇らしくて。さっきまでの惨めな気持ちが、霧散していた。
薄暗い関所の先が、急に開けたような気がした。