佳作「鴎のお礼 六藍光洋」
「小父さん、泣いてんですか?」鴎が尋ねた。
「ああ、泣いてる」
「悲しいから?」
「悲しいからだ。悔しいからだ。情けないからだ。だって、家も、家族も、みんな津波にさらわれちまったんだぞ」
「でも、船が残ってますよ」
「ああ、船はなあ。だが、海が駄目だ。原発から流れ出した放射能で、汚染されて漁ができない。船が残ったって、役に立たない」
「それ以外にも、残ったものもありますよ」
「何が?」
「命です」
「命だって……」そう言いかけて、小父さんは言葉を詰まらせた。 「それが一番辛いことだ。あんとき、わしも津波にさらわれて死んじまえば良かった。陸で家族と一緒だったらそうなってたはずだ。だが、船で沖へ漁に出てたばっかりに、そうはならなかった」
「そんな風に言うのは正しくないですよ。生きてさえいれば、ってことですからね。死ねばみんなパーになっちゃう。肉体だけじゃない。魂も。夢見ていたことも、したいと思っていたことも、喜びや悲しみまでもが」
「そんなもんは何もいらない。この苦しみから逃れられるんなら、命さえもだ」
「それは嘘です。」鴎はきっぱりと言った。
「嘘だって? 俺は本気だぞ」
「本気じゃありません。本気なら、小父さんは、とっくの昔に死んでるはずです。それをまだ生きているのは、なぜですか?」
「それは……」小父さんは言い淀んだ。
「それは小父さんが、本当は死にたくない、生きていたいからなんです。生きてる者誰もが持っている、本能ですよ」
小父さんは幼いときに二親とも失って、お祖母さんに育てられた。近くに武蔵親方が住んでいた。親方は凄腕の漁師だったが、家族を持っていなかったので、小父さんのことを、わが子のように可愛がってくれた。
小学校の上級になると、小父さんは親方が漁に出て行くときの積荷を手伝い、戻って来たときの陸揚げを手伝った。そして中学校を終わると、当然のように親方の船に乗り込んで、助手として沖へでた。
ある日、沖で網を巻き上げていると、機関室が大爆発を起こした。船は真っ二つに割れ、その衝撃で小父さんは海に投げ出された。見ると二つに割れた船は、火を噴きながら海中へ沈んで行くところだった。
そのとき、小父さんの目には、ウインチの脇で網に絡まれてもがいている親方の姿が映った。親方は助けを求めるように、小父さんの方へ手を差し出した。助けなくちゃ! だが、小父さんの体は氷ついたように動かなかった。目の前で、親方は船と一緒に沈んでいった。小父さんは身の毛がよだった。
「あれと同じ気持ちだ」小父さんはようやく心の奥に沈んでいるものの正体に気づいた。
「それが、本能なんです」鴎は言った。
「だが、それが分ったところで、どうなるもんでもない。苦しみ続けることには変わりないんだから」
「その通りです。ですから、僕に一つアドバイスをさせて下さい。まず住まいを確保して、次に食べるための仕事を見つけなさい。それが出来たら、貴方の周りで困っている者たちに手を差し伸べて、助けて上げて下さい。丁度、小父さんが僕にして下さったように」
「俺が、お前にしてやったように、だって?」小父さんは驚いて聞き返した。
「三年前の大時化のとき、僕は吹き飛ばされて、倉庫の壁に叩きつけられ、翼を折って飛べなくなってしまいました。海鳥が飛べなければ餌が取れないので、死ぬしかありません。腹を空かせ、途方にくれて岸壁の上をうろついていると、小父さんの船が帰ってきました。その船倉には魚が山のように積まれていました。それを見た僕は、空腹に耐えかねて思わずその上に飛び降り、手当たり次第に小魚を飲み込みました。そんな僕を小父さんは黙って見ているだけで、追い払おうとはしませんでした。きっと、僕が片端だということに気づいてたんでしょう。こうして三年間、僕は小父さんのご厚意に甘えて、命をつなぐことができました。でも、小父さんが漁に行けなくなってしまった今、それもお終いです。小父さん、これまで本当に有難うございました。これが僕の最後のお礼の言葉です。どうぞ、僕になさったように、これからは困っている者たちを助けて上げて下さい。そうすれば、それは、小父さんの心の痛みを和らげてくれることになるでしょう」言い終わると、鴎の姿は霞んで行くように見えた。
「おい、待て。どこへ行くんだ!」小父さんは慌てて鴎を呼び止めようとして、その声で目を覚ました。小父さんは港のベンチの上で、まどろんでいたのだった。見ると、足元に、小父さんの船へ魚をついばみに来ていたあの鴎が横たわって、息絶えていた。