佳作「最後の一枚 石黒みなみ」
「やっぱり絶対金持ちの男と結婚しようと思った」
「どうしてこの二人が賢者なのか。バカとしか思えない」
「髪の毛はまた伸びるけど、銀時計はもう生えてこないので、男が損した。女はずるい」
私は赤ペンをおいてため息をついた。最近の高校生はどうなっているのか。
教師を定年でやめ、ひと月ほど妻と二人で毎日家にいたのだが、病気代替で講師の口があり、また高校生に英語を教えている。勉強好きでない生徒たちということで、興味をひくよう、久しぶりにO・ヘンリーの「賢者の贈り物」を易しい英語で読ませてみた。簡単な英語の設問のあと、日本語で短い感想を書かせたプリントをチェックしているところである。昔なら必ず感動したはずの話だ。長くセンター試験のための授業ばかりしてきたので高校生の気持ちの変化に気がつかなかったのか。クリスマスの贈り物に貧しい夫婦は相手に何を贈ろうかそれぞれ頭を悩ませる。妻は自慢の髪を売り、夫の銀の懐中時計につける鎖を、夫は銀時計を売り、妻の髪を飾る櫛を買うのだ。なんとうるわしい夫婦愛だろうか。それがわからないのか。イライラしていると、妻が私のいるテーブルを拭きにきた。置かれたプリントの束をよけて周りをぐるっと何度も拭くとまた去って行った。
私は今自宅のリビングで仕事をしている。週三日の講師なので学校の机は残りの二日の人と共用とされた。現役だったころに比べると私物も置きにくいし、周りの同僚も知らない人ばかりで話も合わない。第一、授業時間以外の手当は出ないので、プリントや宿題のチェックは持って帰ってやっても同じことだ。どうせなら家でお茶でも飲みながらやりたい。授業が終わればさっさと帰り、できるだけ家でやることにしたのだが、妻の機嫌がよくない。また仕事をすると言った時は手放しで喜んでいたのに、いったいどういうことなのか。
妻が隣の部屋で掃除機をかけ始めた。うるさい音が耳につく。
「おい、ちょっと静かにしてくれんか」
返事はない。聞こえないのか。しかたがないので次の生徒の感想に移る。
「この二人はもっとよく話し合うべきであった」
まあ、そういえば、そうだ。私にも覚えがある。
定年になったあと、毎日家にいると、妻が「一日三回、食事を作るってどれだけ大変かわかってるの」と言いだしたので、そういえばそうだと思った。いろいろ考えたあげく、妻に内緒で豪華客船のクルーズに二人分申し込んだ。二週間、あちこち楽しみながら、しかも飯や片付け、掃除の心配はいらない。長年の感謝をこめたプレゼントだ。驚かせるつもりで、チケットを見せたら妻は激怒した。
「何にもわかってないのね!」
私の退職金から出すと言っているのである。何が不満なのかと思ったが、確かにその二週間が終わってしまえば、また家に戻ることになる。しかし、一年中客船に乗っているわけにもいかないではないか。そう言うと妻は、ますます怒るだけであった。結局クルーズはキャンセルした。そうこうするうちに、講師をすることになり、妻は機嫌がよくなったはずだったのだ。
掃除機の音がまだ続いている。妻がこんなにきれい好きだとは知らなかった。次の感想を読む。
「髪の毛が売れるなんて知らなかった。私も売って携帯代に回したいので、先生、どこで売れるか教えて下さい」
これは昔の話だと授業中に言って聞かせたはずだ。何度言ったらわかるのか。人の話を聞かない奴らだ。
「ちょっと、聞いてるの」
顔をあげると妻が立っている。いつのまにか掃除は終わったようだ。
「お茶飲んだら、湯のみは自分で洗ってかごに伏せてって言ってるじゃない。」
なんだ、そのことか。
「それも一回飲んで流しの横に置いて、また次のを使って、洗い物がたまるだけでしょ」
「わかった。でも今は仕事中だから」
「何度言ったらわかるの」
妻はぷりぷりしながら向こうへ行ってしまった。キッチンから洗い物の音が聞こえてきた。ガチャガチャとあてつけがましく大きな音だ。そういえば結婚記念にもらった立派な皿が、どういうわけかこのごろ次々と割れて、あと一枚しか残っていない。
プリントは次で最後だ。終わらせてしまおう。どれどれ。
「この二人は結婚すべきではなかった」
ガチャーン、と大きく食器の割れる音がした。あれはひょっとして・・・私は思わず最後の一枚に大きく花丸をつけていた。