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佳作「河童に注意! 栗太郎」

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作文・エッセイ
結果発表
TO-BE小説工房
第19回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「河童に注意! 栗太郎」

例えば「クマに注意!」という標識ならば、この周辺には熊が出没するから気をつけろという意味であるし、「カルガモに注意!」ならば、可愛いカルガモをはねないように通行の際には細心の注意を払えという意味だろう。それでは我社の裏山にある「河童に注意!」という標識が意味するものはなんだろう?

確かに河童は悪戯好きな妖怪で、人を溺れさせたり内臓を抜き取ったりする危険な奴ではあるけれど、レッドデータブックに記載されるほど希少で学術的価値の高い生き物だ。奴らの玩具にならぬよう気をつけると同時に、傷つけぬよう心を配らねばならない。

「河童に注意!」

いったい誰がその標識を最初に設置したかというと、我社の創業者だ。我社の社歴は長く、江戸時代まで遡ることが出来る。社屋が建っている場所は山を切り開いた場所で、その山にはかつて河童の一族が住んでいたと言う。住処である山を削るお詫びと、今後ともお守りくださいと言う気持ちを込めて、創業者は標識を設置したらしい。当初はきっと、河童たちの生活を脅かさぬよう、社員に注意喚起するための標識だったのだ。

だが時代は明治、大正、昭和と移り、もはや平成も三十年近くを数えようとしている。実際に河童に遭遇した社員が幾人いるだろう。一応、年に数件の目撃報告はあるのだ。ロッカールームで河童にお尻を触られたという訴えや、駐車場でふいに現れた河童に気を取られ車をぶつけてしまったという申し開きが、業務日誌に淡々と綴られている。

雨風に晒される標識は、それなりに痛むので、五十年に一度、新しい物に取り換えられてきた。目出度くも今年創業三百年となる我社なので、標識は六度目のリニューアル時期を迎えているのだ。

デザインについては、これまた伝統的に社内から募っており、採用作には金一封が出るとあって、なかなかの力作が寄せられていた。

締切日を迎えた本日、私のデスクには百枚近い河童のイラストが積み上がっていた。さて、ここで最初の問題に立ち返る。標識に添える河童のイラストは、危険な生き物、恐怖の対象であるべきか、素朴で可愛らしく庇護欲を誘う物であるべきか?

標識リニューアルは、総務課長である私に一任されていた。そもそも、三百周年記念行事の全てが私の肩にかかっているのだ。正直言って、たかが裏山に設置する標識一つに割く時間はない。今日中にデザインを選び出し、後は馴染の看板業者に丸投げするつもりだった。彼らは、素人くさいデザインをちゃっちゃと直して、予算内でそれなりの物を作ってくれるだろう。

就業時間をとうに過ぎフロアに一人きりになった頃、私はなんとか候補を二つに絞った。いわゆる「ゆるキャラ」っぽい、女性に受けそうな可愛らしい河童と、怪談の挿絵になりそうな、おどろおどろしい河童だ。

二枚のイラストを並べて、私は唸った。どうも、こう、ピンと来ないのだ。本物の河童なんか見たこともないくせに、これは違うという感覚を拭えない。レッドデータブックには写真が載っていただろうか?

資料室に向かおうと立ちあがった時、私は、その足音に気づいた。ペタンペタンと、濡れた足音。大手警備会社と契約している我社のセキュリティは完璧だ。こんな時間に不審者が入ってこられる筈がない。

案の定、姿を現したのは、ひどく懐かしい気持ちにさせる相手だった。

濡れた緑色の体に服はまとっていない。素足には水かきがあり、背中には甲羅を背負っている。何よりも頭の上にある皿が、彼の正体を教えてくれた。

彼は無言のまま私を見つめて、そっと手招きをした。私はふらりと足を踏み出した。

ああ、なんで忘れていたのだろう。私が生きるべき場所は、あの山の奥深い、美しい沼であったのに。

私は窮屈な靴と靴下を脱ぎ捨てた。いつの間にか、両足の指の間にはとてもきれいな水かきが戻っていた。手の指の間も同様に。

チクチクして重く、暑苦しいスーツもむしり取る。シャツも、下着も、眼鏡も、携帯も。余分な物は、何もかも捨てて行こう。

ずいぶんと身軽になって、夜の中に飛び出した時、私はちらりと古ぼけた標識に目をやった。

「河童に注意!」

五十年に一度、河童は仲間を迎えに来るのだと、標識は、そのことを告げようとしていたのだ。

魔物に攫われないように?

いいや、その手を掴むチャンスを逃がさぬように。