佳作「一時停止 あべせつ」
その細い裏道のどん詰まりは本線へとつながっていた。渋滞を避けて住宅街の生活道路を快調に走ってきたが、ここから先は本通りに出なければ店に帰れない。
信号機のないT字路からの合流は左折のみ。川の流れのように続く本線の車列の中に割って入るしかないのであるが、長らくの渋滞で依怙地になっているドライバーたちはなかなか入れてはくれないことを和枝は経験から知っていた。
(だからこの辺りへの配達、いやなんだよね。今日は早く帰りたいのにさあ」
ところがどうしたタイミングか珍しく本線側の車の列が途切れ、目の前に空いた道路が見えた。
「よし、今だ」
間合いを見るため、そろそろと車を進めていた和枝は軽ワゴン車のアクセルを踏んで左折した。
そのとたん、サイレンの音が鳴り響きルームミラーに警察の原付バイクが写った。和枝に向かって左側に寄せて止めるようにと手を振っている。
「えっ、なに、わたし?」
怪訝に思いながらも和枝はハザードランプを点滅させて停車した。警官がバイクから下りて近寄って来ると窓を開けるようにとガラスを軽く叩いた。
「奥さん、あそこ一時停止ですよ。標識見ませんでした?」
思いのほか若い警官の顏が開けた窓から覗き込んでいる。
(げっ、あそこにそんな標識あったっけ?)
「じゃあ、免許証を出してください」
(免許証? やばい。この前も駐禁取られたとこなんだよね。点数なくなったら配達の仕事クビになっちゃうよ)
こうなっては仕方がない。和枝は腹をくくった。
「わたし、ちゃんと一時停止しましたよ」
「いやいや、奥さん、それはないですよ。ぼく、ちゃんと見てたんですから」
「どこで見てたっていうのよ?」
「あそこです」
警官は和枝が出てきたT字路の際に立っていた街路樹を指さした。
「あんたねえ、あんな木の陰に隠れてこそこそ取り締まりしてんじゃないわよ。ここでそういう違反が多いと言うなら、正々堂々と姿さらして注意喚起を促しなさいよ。それも警察官の仕事でしょ。点数稼ぎばっかりやってんじゃないわよ」
意外な逆襲を受け、若い警官の顏がみるみる紅潮していった。
「あ、あのですね、奥さん」
「あんたね、独身の女をつかまえて奥さんはないでしょ。失礼だわよ」
「あ、す、すみません」
しどろもどろになった警官を見て、和枝はこれは押し切れると踏んでますます舌をさえわたらせた。
「だいたいねえ、わたしが一時停止しなかったっていう証拠でもあるわけ?」
「証拠はぼくの目です、ぼく、ちゃんと見たので」
「あんたの目なんて、あてになるもんですか。この間の不祥事も新聞沙汰になってたじゃない。どこやらの警察ででっち上げの冤罪があったんですって? これもそうなんじゃないの? 録画でもあるならともかく、ないのならわたしは絶対認めないわよ」
これはらちが明かないと思ったのか、警官は、じゃあ次回からは気を付けてくださいねと言い残して去っていった。
翌日、和枝はそんなことなどすっかり忘れて、いそいそと本間和明の自宅を訪ねていた。
「今日はお招きにあずかりまして、ありがとうございます」
「いやあ、和枝さん、今日はまた一段とたおやかですね。着物がよくお似合いだ」
玄関先に出迎えた本間の上機嫌に、和枝はやっぱり和装にしてよかったと心底思っていた。
三歩下がって夫の影を踏まず。そんなしとやかな女性が好みだと聞いたときから、和枝は裕福な本間の後妻になるべくずっとそういう女を演じ続けていた。その努力が実り、今日は本間の家族と初めての対面である。
(これさえうまくいけば、あとはもう)
三十路も半ば過ぎた女にとって、これほどの玉の輿は最後のチャンスであろうことは自分でもわかっている。和枝にとっては今日が正念場であった。
「和枝さん、息子の孝明です」
「あっ」「えっ?」
二人は同時に声を上げると絶句した。
和枝の目の前には昨日の若い警官がいた。
(ああ、こりゃ結婚も一時停止だな)
和枝は心の中でつぶやいた。