選外佳作「豆腐二丁 朝霧おと」
しまった、と思ったときは遅かった。派手な音が店内に響き渡り、客の目が一斉にこちらに向けられた。僕は「す、すんません」と言って、あわてて鍋を拾った。
「このドジ」先輩が僕のお尻を蹴った。背後で大将の舌打ちする音が聞こえた。
「ほら、もたもたしてないで早く行ってきて」
女将さんは。僕の手に小銭をねじこむと、カウンターの客に「鈍なもんで、すんません」と取り繕うように言った。
外は雪だった。上着を着るのを忘れて出てきた僕は、左手で鍋を抱き、右手で白衣の襟をかき合わせて、角を曲がった先にある豆腐屋まで走った。
「ごめんやす」
ガラス戸を開けると、奥からお姉さんが出てきた。お姉さんは「何丁?」と言い、やわらかく微笑んだ。
「二丁です。足りなくなってしもうて」
大きな水槽の底に白い豆腐が沈んでいる。お姉さんは腕まくりをすると、その冷たい水の中に手を入れ、豆腐一丁を息を止めるようにして浮かび上がらせた。そして僕の持ってきたアルミの鍋の中に、それをていねいに入れた。同じようにして二丁入れ終わると、お姉さんの腕はピンクに染まり、手の甲も痛々しいほど赤くなった。
僕は四十円を差し出しながら「冷たくないですか?」と訊いた。
「冷たいよ。夏は気持ちいいんだけど、冬はね……辛い」
ああ、お姉さんでさえ辛いんだ。僕が辛いなどと言ったら、鼻で笑われるだろうな。
高校受験から逃げて、割烹料理屋の見習いになり一年がたった。高校へは行かないで働く、と親に宣言したのは中三の秋。勉強するのが嫌だったからだ。じゃ、どうするの、と母に言われ、僕は仕方なく好きでもない料理の道を選んだ。
これで勉強せずに済む、とせいせいしたのは最初の三日間だけ。毎日、掃除と野菜洗いばかりで、これまで一度も包丁を握ったことがない。最初、優しかった大将や女将さんは、あまりに要領が悪い僕にあきれ果てたのか、一年たっても使いっぱしりの仕事しかさせてくれなかった。けれど、その使いっぱしりでさえ、まともにできないのだ。こんなことなら、高校に進学したほうがよっぽどましだったのではないか、このままでは、いつまでたっても一人前の料理人になれないのではないか、と後悔する毎日だった。
休みの日はどこへも出かけず、部屋でごろごろしていた。たまに先輩からボーリングに誘われるが、悪い人たちのたまり場のような気がして怖くて行けない。三回、断ったらもう誘いはかからなくなった。
その日、僕はアパートの窓から道行く人をぼんやりと眺めていた。どこに出かけるのか、家族連れやカップルが足取りも軽く通り過ぎて行く。その中に見覚えのある顔を見つけた。豆腐屋のお姉さんだ。男と腕を組んで、なにやら夢中になっておしゃべりしている。
やっぱり……。そりゃそうだよな。彼氏がいても不思議でもなんでもない。
実は僕は少しだけお姉さんのことが好きだった。実家が豆腐屋で、仕方なく手伝いをさせられているお姉さん。水槽に沈む豆腐のように、あの薄暗い店兼作業場で丸一日を過ごすお姉さん。不満をためながらも半ばあきらめ、受け入れているお姉さん。僕はお姉さんの中に自分を見ていた。お姉さんが微笑むと癒された。
その日から、僕の唯一の楽しみだった豆腐屋へのおつかいが苦しみに変わった。「何丁?」と言って微笑むお姉さんは、どこか知らない人のようだ。いつもお姉さんの後ろにあの男の影が浮かび上がり、僕はなるべくお姉さんを見ないようにして豆腐を買った。
お姉さんが結婚した、といううわさを聞いたのは、それから二年後だった。婿養子だったのか、結婚後もお姉さんは豆腐屋にいて、僕の顔を見ると、いつものように「何丁?」と言って微笑んでくれた。
「豆腐が足りないな。すまないが、ひとっ走り行ってくれないか」
今年、預かった新人は十八歳の若造だ。僕の若いときとは違い、よく気が利いて、きびきびと動いてくれる。
「いつものやつ、二パックな。売り切れるから急いで」
あの古びた店舗の豆腐屋は、今では大きな看板が掲げられ、雑誌で紹介されるほどの人気店になっていた。
新人は千円札をポケットに入れると、手ぶらで裏口から飛び出していった。
棚の片隅に長年使っていないアルミの鍋が目についた。鍋は今も鈍く光っていた。