選外佳作「でかい鍋 岸田奈歩」
「これ、母さんから結婚祝いだってさ」
旦那が差し出してきたのは、やたらでかい、店でおでんを作っているときに見るような、アルミ鍋だった。しかも使い古しの鍋である。新婚夫婦にこんなものをよこすとは。しかも結婚祝いだなんてと、怒りがこみあげてきたところで玄関のチャイムが鳴った。
「ちょっと、出てくる」
新築マンションのピカピカの廊下を旦那は走っていく。デザイナーズマンションに、でかい古い鍋など似合わない。カウンターキッチンでカフェのような料理をつくるために見た目も機能性も抜群の鍋を買ったのだ。
「結婚祝いの鍋が空っぽじゃ申し訳ないと思ってねー」
甲高い声が玄関からと近づいてくる。それは義母の声だった。
「おい、母さん、来るなら連絡しろよ」
「連絡したわよ、でも電話に出ないから」
義母は両手に買い物袋、背中にでかいリュックを背負っている。
「今日はとびきりおいしいおでん作るからね」
と言いながら義母は買い物袋から、ちくわや大根などマジックショーさながらに次々に食材を取り出しテーブルに置いた。
「お義母さん、うちは二人ですから。こんなに大きい鍋も、大量のおでんも……」
「佐藤家特製のおでん、この鍋でつくると絶品よ」
気が付けば義母は割烹着を着て頭には真っ白な三角巾を被っていた。
「お気持ちだけでけっこうですので」
と言いつつ旦那をチラ見すると気まずそうに旦那は顔をそらした。
「子供がたくさん出来たらでかい鍋で作るくらいがちょうどいいのよ。あほみたいにバクバク食べるからね、アハハハハ」
しゃべりながらも大根やこんにゃくなどをざくざく大雑把に切っていく。
「子供は二人でいいと思ってるので、こんな大きい鍋は」
「四人家族でもこの鍋は役立つわよ。作り置きできるし、それにみんなで鍋のおでんつつくって盛り上がるわよ」
義母は、あぁ言えばこう言う人だ。やんわりでかい鍋などいらないと言っているのに、全く彼女には響いていなかった。
鍋のダシ汁からはいい香りが漂っている。湯気が立ち上る中に切った具材を豪快にどばどばと入れていく。
「適当がいいのよ、この鍋でつくるときは」
「すごい量ですね、相撲部屋みたい」
「あらー、面白いこと言うわね。ポコポコいうくらいの火加減で煮ておけば晩にはおいしく食べられるから」
義母は割烹着と三角巾を取り、気が付けばパンパンなリュックを背負っていた。
「食べていかないんですか?」
「年寄りは忙しいのよ。じゃ、またね」
ピカピカな廊下をスケートみたいに滑りながら進み義母はあっという間に消えていった。
「勝手に来て勝手に帰るってなんなの?」
旦那はまだ煮えてないちくわをつまみ食いしながら首をかしげている。
「忙しいどころか家にいつもいた人だけどな」
でかい鍋の中は小さくポコポコと煮えている。この火加減は義母の言っていた通りなんだろう、きっと。
晩まで煮込み続けたおでんは完成した。皿に具材を盛ろうとすると「鍋ごとテーブルに置いて、好きなもんつついたほうが旨い」と旦那が言い張り、そういえば義母もそんなことを言っていたと思い出ししぶしぶそれに従うことにした。
すべてが大振りな大雑把なおでんはやたらおいしかった。いつもは体重を気にして小食にしているが、次から次へと食べ久々に満腹感を味わった。
「お義母さんに一応電話しておこうよ」
おいしかったと言えばあの甲高い声で喜ぶだろう。豪快に笑う顔を想像していると、首をかしげる旦那が目に入った。
「電源が入ってない電波の届かないところだってさ」
その日以来、義母とは音信不通になった。年に一回、「楽しく生きてます」とピースマークが描かれたハガキが送られてくるだけで居所はつかめない。あの日、家に来て何か言いたいことがあったのだろうか?あのでかいリュックはどこへ向かうためのものだったのだろうか?
あれから十年が経つ。二人で充分ですと言っていた子供は一人も出来なかった。「二人で食べるおでんもおいしいです。でもお義母さんの甲高い笑い声を聴きながら食べたいです」義母に書いた宛先のないはがきを見ながら、今日もあの鍋でおでんを作っている。鍋からは、おいしくて優しい匂いがあの日のように立ち上っていた。