佳作「囲炉裏鍋でお雑煮を 深山孝」
母が僕と妹の恭子を連れて、奈良の明日香村に近い山村の古民家を訪れたのは父の葬儀が終わった三日後であつた。父は七〇歳になった時、癌で余命一年と宣告され、入退院を繰り返しながら一年と半年生きた。家族だけの葬儀を終え、遺品の片付けが終わった時、明日は奈良へ行って見てもらいたいものがあると言われたのだ。
僕たちの家族は亡くなった父の考えで、恭子が二十歳になったとき、各々が相続する財産の内容を話しあって決めていた。だから葬儀の後も相続での相談事などはなかったはずであるが、その古民家は半年ほど前に購入したのだと母は言った。
大阪から奈良へ向かう車の道中、母は古民家についてのいきさつを一切話さなかった。
そのことは向こうへ着いてから話すといわれ、僕も恭子も新たに出現した古民家についての興味もなかったし、相続するつもりもなかったので、奈良の古民家のことは母に任せるといったのだが、どうしても見て欲しいといわれてやってきたのだ。
その古民家は大阪を車で出て、明日香村を越えて三十分余り走ったところにあった。
平屋の三十坪ほどの広さである。
玄関は格子の引戸であった。中に入ると大きな土間と奥に釜戸が二つ、左の二十畳ほどの座敷には囲炉裏があり、鍋がかけられていて、母は囲炉裏を囲んで座るように促した。
囲炉裏の周囲にはイグサで編まれた四つの座布団があり、そこに座ると母は一通の封書を取り出し、僕と妹に渡した。
「お父さんから、この古民家で渡して欲しいと頼まれたの、今読んでみて」
父からの手紙は便箋に震えた文字で書かれていた。僕と恭子は顔を寄せて読んだ。
*
『頑張ろうとしても、できないことがあるのは仕方がない。もう疲れたので一足先に行く事になるが、後のことは決めたとおり宜しく頼む。
私の両親{君たちの祖父母}は岐阜県の山村で茶畑を作るため、そこに移り住んで荒地を開拓し、わずかな畑で自給自足のような暮らしをしていた。三年間頑張ってやっと翌年茶摘ができそうだと言うときに、その村がダムの建設で湖底に沈むことになってしまい、茶畑からの安定した収入もなかったため、わずかな保証金でその村を出ることになった。ダムなど作らなくても治水対策はできるはずなのにと村人たちも最初は言っていたが、やがてはそうなってしまい、そのとき両親は十四歳になった私と二歳下の弟に貰った保証金を分け与えて、十八歳になったらそのお金を自由に使って良いと言った。そのお金で私は進学し、弟は東京へ出た。私はその時の両親の決断を今でも誇らしく思っている。
私の中にも余命と言う言葉が居座ったとき説明できない衝動が生まれ、はじめはさまざまなことで頭が一杯だったが、やがて昔のことばかり思い出して、たった一つの思い出のために、こんな買い物をしてしまい、みんなに迷惑をかけるだろうが許して欲しい。
釜戸と囲炉裏には沢山の思い出がある。
四歳か五歳の頃、両親は朝ごはんを食べると弁当を持って仕事に出かけ、夕方まで帰ってこず、夕食が終わると深夜まで農機具の手入れや藁を編んだりして、手を休める暇がなかった。かまってもらえるのは釜戸で朝ごはんを炊いている時と寝る前の三十分ほどだった。だから毎朝五時ぐらいから私と弟が釜戸で火加減を調節している母の傍に行って、揺れる炎を見ながらいろんな話を聞くのが楽しみだった。火口から落ちた灰の上に火箸で字を書いてくれて、沢山の漢字も教えてくれた。これが【川】とかね、私と弟は薪が燃える灯りの下で灰の上に何度も繰り返して書いた。 母親と一緒にいられるのが一日の中で早朝の三十分だけだけど、それは仕方が無いと子供ながらにそう思っていたのだろう。物は無かったが、みんなが優しかった。そして正月になると一日中両親といることが出来たので、囲炉裏釜で煮たお雑煮を一緒に食べるのがとてもうれしかった事を覚えている。
お前たちにもう何もしてあげることが出来ないのに、こんなわがままを許して欲しい、今度のお正月はこの囲炉裏鍋でお雑煮を食べようと思っていたが残念である』と言葉は終わっていた。日付は一ヶ月前に書かれたものであった。
僕は、いや僕たちは父の人生の半分しか知らなかった。そして知らなかった半分のうちの少しだけを父はこの古民家で伝えてくれた 。
あと一月半でやってくる正月をここで過ごしたいといった母に、家族を連れてやってくるよと僕も恭子も答えた。