佳作「くまと鍋 青野透子」
別れようか、と浩が切り出したのは先週の金曜日。
学生の頃から通いつめていた、小さな居酒屋で価格相応の薄いビールを二人で飲んでいた夜だった。浩は俯いて、別れよう、もうお互い疲れたし、と乾いた声で言った。その時、引き留めることはできたかもしれない。けれど、私は、嫌だと駄々をこねることも、もう少し話し合わない?と交渉することもしなかった。ただ、「お酒がまずくなった」と言って、千円札を二枚、テーブルの上に置いて、帰ってしまった。自宅に戻ってから、ぼろぼろと、涙がこぼれた。泣きながらベッドに伏せて寝て、朝起きたら目がぷっくりと腫れていた。着信は三件、メールは一件あって、「ごめんな。けどもう無理だと思う」とだけ書かれてあった。
それからというもの、私は料理を作ることをしなくなった。もちろん、それ以前も私は料理というものに関心はあまりなかったが、ご飯を炊く、野菜や肉を炒める、味噌をとく、というくらいのことはしていた。けれど、浩が別れを言い出して、そのくらいのことさえ、できなくなった。意味がないような気がしたのだ。
自炊をせずに、私はコンビニに寄って、弁当やサラダ、カップスープを買って、それを食べて過ごすようになった。一週間が経とうとして、私の身体に変化が起きた。腎臓が弱いくせに、塩分を取りすぎたので、むくみはじめ、身体中に倦怠感が襲ってきた。私はその日、初めて会社を休んだ。
ベッドに伏して寝ていると、玄関のドアが叩く音がした。なぜ、インターフォンを鳴らさないのだろう、と不思議に思いながら、けれど怠いので、そのままにしておいた。ドアを叩く音はますます大きくなって、部屋全体が震えてくるのがわかった。そして、とうとう、ドアのぶを強引に捻り、鍵を壊して、ドアが開かれた。
現れたのは、ツキノワグマだった。
どういう経緯があって、この街にツキノワグマが降りてきたのか、そういう冷静な疑問よりも先に、「食べられてしまう」という喫緊の問題があって、私はベッドから飛び上がった。
クマは胸の辺りにある三日月形の斑紋を手で撫でながら、私のことをじっとねめつけるように見た。クマは、二足で立ち、荒い息をしながら、少しずつ私との距離を縮めていった。クマが近くに寄ると、クマの体臭がむっとして鼻を突き、目の前にいる者が獣であることを感じさせた。
寝たふりをすればいいのだろうか、それとも優しい声でクマを説得すればいいのだろうか、クマと対峙しながらそんなことを考えていたところ。
「もうすぐ夕飯の時間ですよ」
と、クマが私の背後にある時計を指さし、柔和な顔つきで言った。
クマが喋った。
私はその事実、いや、もしかしたら夢かもしれない出来事に暫く放心していた。一方のクマは、私に背を向け、台所の冷蔵庫の中をなにやら物色しだし、「生活感のない冷蔵庫ですね」と、一週間以上前の野菜を取り出していた。
「どれもこれも傷んでいますね」
クマは台所に立ち、野菜の傷んだ部分を包丁で削ぎ落としていった。
「何をしているの」
おそるおそる聞いてみたら、
「喜美子さんの食生活が偏っているようなので、出張にきました」
と、クマは淡々とした口調で言った。
「出張?」
「そうです。出張シェフです」
呆然と立っている私の方にクマはくるりと向き直り、
「鍋を食べませんか?」
と言った。
クマが出した鍋は味噌鍋だった。冷蔵庫にはろくなものがなかったが、かろうじて食べられる野菜の一部と、冷凍してあった鶏肉があったため、鍋らしき姿には一応なった。私とクマは向かいあって、鍋をつついた。こうして誰かと鍋をつつくなんて何年振りだろう。学生時代によく浩と貧乏鍋を作ったが、社会人になって、それはなくなった。どうして消失したのだろう、と思うと、またなぜだか、泣けてきた。手の甲でそれを拭いながら鶏肉を頬張っている私に、クマが、「出会いあって別れある、それが人間の常ですよ」と全てを知り得ているような口をきいた。
「クマのくせに」
そう言うと、クマは、ふっと笑った。
「出会いあって別れある。逆に言うと別れあって出会いがあるのだから、また同じ鍋をつつく人に出会えますよ」
クマはずるずると味噌鍋の汁を啜った。クマに慰められたことを、おかしく思い、また不名誉なことだな、と思った。
鍋が全て終わると、クマは帰っていった。
帰りしな、クマは、私の濡れた頬を撫でながら言った。
「身体を作るのは食です。心を作るのは、人間です。僕は人間ではないから、喜美子さんの欠けた心を埋めることはできません。その相手は、また次に出会う人の役目でしょう」
クマは、最後にドアの鍵を壊したお詫びを言い、お腹を出して寝ないように、と注意をし、そして、私の腫れぼったい瞼にキスをして、帰っていった。
クマが去っていった部屋は、まだ味噌鍋の匂いが、温りを持って、残っていた。