選外佳作「人という字は 藤田猫太郎」
「余計な口出しはするな! 」
口に出してから自分の声の大きさに驚いた。体から妙な興奮が抜けていく。やってしまったと思った。真っ白なソファに身を沈めているであろう葵は、これをどう思っただろうか。衣擦れの音一つすら聞こえない。葵の白い手に包まれたコップの中で氷がカランと音をたてた。
あれから、逃げるように家を出てきてしまった。事の発端は私が仕事に根を詰めすぎていることだそうだ。確かに今日は日曜日出勤だし、最近は帰宅も深夜が多い。だが、今の仕事は佳境に入っているんだ。仕方ないだろう。
「主任、今日顔恐いですよ。二日酔いですか? 」
私の左側のデスクで同僚の佐々木がけらけらと笑いかけてくる。彼は次期主任候補として私が目をかけている人物である。人当たりも良く、技術も優れている。しかし、いかんせん彼には年上を敬うという意志が感じられないようなことが多々ある。
「会議の資料の事で確認したいことがあるんですけど」
佐々木は的確に指摘箇所を説明し始めた。驚いた。佐々木が説明したのは私が昨夜確認したところ全てを網羅しはしなかったが、見落としたところも見出していた。
「ああ、……」
答えながら、家から引っ掴んできた鞄を探るも資料が入ったUSBメモリが見つからない。夜遅くまで自宅のパソコンで確認していたことまでは覚えている。そこからどうしただろう。嫌な汗が滲む。
「書類忘れたんですか? 」
プロジェクトの最終決定会議に資料を忘れるなんて、ぐうの音も出ない。結局その日は佐々木に助けられてばかりだった。
会社を出た。夏だからだろう午後六時を過ぎても外はまだ明るみを帯びている。足は自然と帰路につく。家に帰るのが億劫だった。今日はビジネスホテルにでも泊まろうか。泊まるにしても、USBメモリがなければ仕事はできない。家に帰って葵と顔を合わせるのも気まずい。
「五〇三号室の藤村さんやね」
突然、背後から声がかかった。藤村とは私の姓だ。振り向くと五〇代後半くらいの老人が立っていた。
「五〇四号室の川田です」
思い出した。川田さんは私と葵が住んでいるマンションの部屋の隣に住んでいる人だ。今まで何度も漬物やおかずを頂いたことがある。小さい頃は近所に住むもの同士で漬物や畑で採れた野菜をあげもらいしていたものだ。なぜこんなことをするのか分からないまま大人になった私は、いつからかご近所付き合いは葵に任せっきりになっている。
「いつも妻がお世話になっています」
私は渋面と愛想笑いでひきつった顔でそう言うと、川田さんに会釈をした。
「いやいや、世話になってるのはこっちのほうですよ」
何を話せばいいのか、自然と歩みが速くなってしまう。妙な沈黙に目を泳がせていると、川田さんの右手に目がいった。
「……。買い物の帰りですか? 」
「あ、いやね。今家内が入院していて、その帰りなんですよ。年が年なもんで、いつかは覚悟していたんですがね。離れてやっと……何ていうか有難さに気づくもんです」
そういえば葵が、お隣の川田さんのとこの奥さんが入院したから見舞いに行こうと言っていた気がする。
「ああそうだ、見舞いに果物を買いすぎてね。藤村さんよかったらもらってくれませんか? 」
川田さんは「果物は足がはやいから」とあれよという間に私の手に買い物袋を握らせた。
「ありがとう、助かったよ。奥さんにも宜しく言っといてください」
いつの間にマンションのエレベーターに乗ったのだろう、気が付くと川田さんと一緒に部屋のある五階に降りていた。
「それではまた」
川田さんは顔に穏やかな皺を刻ませてそう言うと五〇四号室へと入っていった。
五〇三号室の扉の前に向かった。鍵を開け、ドアノブに手をかける。「人」という字は、人二人が支えあっているように見えるだろう?昔親父が言っていた。私も多くの人に支えられて生きている。そっと扉を開ける。
出迎えたのは、見慣れた部屋の白い光と香ばしい醤油の香りだった。玄関には葵の好きなアキアカネ色のミュールが一足、きちんと揃えられている。
「ただいま」
私は革靴を脱ぐと、葵の靴に隣り合わせた。