選外佳作「ベンサンの神様 澤村ふゆほ」
金曜日だけあって居酒屋は満席になった。三十歳で脱サラして、駅前の商店街にカフェをオープンして一か月。伸びない客足のことを会社員時代の同僚に愚痴っていた。
「やっぱり難しいのかなあ。新規で、コーヒーの味だけで勝負ってのは」
同じ商店街の中にある居酒屋は五十代のご夫婦とバイトの若い女性で切り盛りしているのだが、いつも大盛況だ。
「俺んちの親もレストランやってるけどさ、若い頃はほんと、食えなかったってよ」
同期だった友人はひたすら慰めてくれるが、こいつは新婚ほやほやで仕事もプライベートも順調なのだ。こちらは今月は店の家賃を払うのがやっとで、実家住まいだから暮らせているだけだ。五年付き合っている彼女も、口では応援すると言ってくれているけど、内心どう思っているかわからない。
「ちょっと、トイレ行ってくる」
座敷を下りて、居酒屋の便所サンダル、略してベンサンを履いてふらふらと歩いた。
勢いよく放尿した後、手洗い場の古びた鏡をのぞきこんだ。童顔のおかげで、まだ若ぶりを保っている。よし、俺はまだまだいける。席に戻ったら、愚痴はヤメだ。新婚夫のヤツをいじりたおしてやろう。そう決めて蛇口を閉めたそのとき、背後で声がした。
「あんた、わしのお願いきいてくれんかの」
目を倍ぐらいに見開いて振り向くと、おじいさんが立っていた。ロン毛の白髪、長いあごひげも真っ白で、裾が足首まであるワンビースも真っ白だ。
「お願い、きいてくれたら、わし、ここであんたの店、宣伝したげるから」
「はあ、ていうか、おじいさん誰なんですか」
「わし、便所サンダルの神様」
「は?」
「ここで用を足してる人の耳元で、あんたの店に行くようにささやくの。わし、一応神様だからさ、効果あるとおもうよ」
もう一度、しげしげとおじいさんを見た。確かに、見た目は神様っぽさ満載だ。だけど、ベンサンの神様って。
「ま、そりゃ助かりますけど」
「決まりね。じゃ、あんた、そこのサンダル履いたまま、あるところに行ってくれる?ここから歩いて三分ぐらいのところなんだけどさ」
「なんで自分で行かないんですか」
「わし、このトイレでしか姿を現せんのよ」
「なるほど」
いいですよ、行きましょう、というと、神様はスッと消えた。座敷の横を通るとき、「ちょっと出てくるわ」と連れに声をかけたら、へ? といっていたが、そのまま出た。
十一月末の夜気はすっかり冬のそれだ。
「んで、どこすか?」「履物屋」「角の果物屋の横の?」「そう」
言われた通り、ずんずん歩いて、履物屋の前まで来た。着きましたよ、とベンサンに話しかけたが、返事がない。九時前だけど、まだ店が開いていて、店主のおばあちゃんがちんまり座っている。
「いらっしゃい」
「あー、えーと、これをください」
店先のワゴンの中のベンサンを一足選んで、手渡した。ありがとさん、あんた、新しい喫茶店の兄さんだね。、とおばあちゃんが話しかけてきた。
「はい、お世話になります」
「せっかくお知り合いになれたんだけどね、あたし、来月でここ閉めるのよ」
「はあ。ええ? て、何でですか」
「県外に住んでる息子夫婦にずっと前から同居するようにいわれててね、足も弱ったから、とうとう商売やめて引っ越すのよ」
あんまり、荷物も持って行けないんだけどねえ、とおばあちゃんはさみしそうに笑った。
居酒屋のトイレに戻ると、神様はまた姿を現した。
「おばあちゃんに会いたかったんですか?」
神様はうなずいた。
「神様見習いの頃にあの店のつっかけについていたことがあっての。家つき娘のあの人は、そりゃもう、かわいかったんじゃ」
昼間に居酒屋の夫婦が、ばあさん、遠くへ行くらしいって話してるのを聞いて、最後にどうしても会いとうて。言った後、神様は目を閉じた。俺もこんな風に今の彼女を思い出すときが来るのかな。
と思っていたが、そうはならなかった。神様のご利益はほんとうで、その後、店は大繁盛したのだ。彼女はとうとう会社を辞めて店に入ってくれた。彼女がつくる焼き菓子とプリンがさらに評判を呼んで、今やすっかり商店街の人気店だ。当然結婚の話もしている。
ただ、あれから、どんだけ話かけても、ベンサンから神様は出てきてくれない。だから、ときどき、こっそり居酒屋のトイレに紙コップに入れたコーヒーを置いてくる。きっと、飲んでくれていると思う。