選外佳作「サービス 山内信夫」
終電間近の車内は空いていて、車両の中には俺の他にもう一人、くたびれたスーツ姿の男が乗っているだけだった。その日も日付が変わる時刻まで残業をしている。歳のせいか近頃疲れやすくなり、電車に揺られているうちに少しずつ睡魔が忍び寄る。
「ずいぶんとお疲れのようですね」
隣に座っていた男からいきなりそう話しかけられ瞬間、俺は思わずハッとさせられた。一種の既視感と言うか、以前にも同じことが一度ならず何度もあったような気がしてならないのだ。
「それにあなたは、自分の人生に満足していない。そうですね?」
不躾とも思える言葉を畳みかけられ、既視感はさらに強まる。男の声には、明らかに聞き覚えがあった。
「そりゃいろいろと不満もありますけどね」
いくら居眠りを見咎められたからと言っても、見ず知らずの人間にそこまで言われる筋合いはない。俺は少しむっとして答えた。
「できれば人生をやり直したい、あの時に帰りたい──そう思うこともあるでしょう」
「そりゃまあ、やり直したいって思う時もありますよ。でもそんなことを思っても仕方ないでしょう」
「ところがやり直せるんですよ」
「何ですって?」
「だから、あなたは人生の中の好きな時間に戻れるんです」
「まさか」
「嘘じゃありません。私は時間を司る神、とでも申しておきましょうか。本来であれば別の名で呼ばれるべきところですが、イメージが悪かったもんでして。近頃じゃこうしたサービスも実施するようになりましてね」
「そんなバカな」
そう言いながらも、既視感はますます強まっていく。
「あなたはただ自分が何歳の時点に戻りたいのか、そのことだけを念じていればいいのです。そうしたら私があなたの目の前で手を叩きます。次の瞬間、あなたは願いどおりの時点に戻っているでしょう」
「しかしですね……」
こうしていつも俺に考える猶予を与えないまま、男は何事か得体の知れない「魔法」を使うらしい。毎回毎回おれの方も「まさか」と思いつつ、そのたびに異なる人生の一時期を頭に思い浮かべる。「ハイ!」という掛け声とともに男が手を叩いた次の瞬間に、念じた通りの過去へと本当に戻っている自分自身を見出すのだから、時間を司る神というのも嘘ではないらしい。
ある時は就職活動がうまくいかずに悩んでいた大学四年生の年に戻り、別の時は片思いのクラスメイトに声をかけられなかった高校二年の夏にまで戻って、人生をやり直した。
あの時ああしていれば、こうしていれば、という局面に立ち返ってのやり直しだったのだが、どの結果も大して代わり映えはしない。何年何十年と経つうちには、結局同じような人生に落ち着いてしまうらしいのだ。人生のどの時点からやり直したところで、俺は平凡なサラリーマンになって会社にこき使われ、帰宅しても冷めた家庭が待っているだけの味気ない人生を送っている。気がつくと同じ四十歳の「現在」を迎えて深夜の電車に揺られ、何事もなかったかのように再びあの男が現れて俺に声をかけるのだ。
いったい何回同じことを繰り返してきたのか、俺にはもう分からなくなっている。一度徹底的に幼い頃の自分にまで帰ってやり直したことがあったらしく、それ以前の記憶が定かでない。時間をリセットするのはほんの一瞬でも、四十歳の時点まで達するのに時間の早送りはできない。何十年も生活しているうちにあの男のことをすっかり忘れ、夜の電車で声をかけられてから初めて思い出すのが常だった。
今まではついつい相手のペースに乗せられていたが、今度だけは違う。言うべき言葉も日頃から心に刻みつけてあった。
〈時間を司る神〉を名乗る男が今まさに目の前で手を叩こうとしたその寸前、俺はその手を遮りこう宣言した。
「もうこれきりにしたいんだ。どうしようもない人生だってことは分かっている。だけど俺にだって、五十歳や六十歳の自分を知る権利があるんじゃないか? いつも四十歳でリセットされたんじゃたまらないよ」
「残念ながら」と、男は首を横に振りながら厳かな調子で答える。「あなたにはそのような時間が残されていません」
「どういう意味だ」
「近頃疲れやすくなったと感じているでしょう。それは歳のせいばかりではありませんよ。あなたの体は、がんに冒されているのです」
「……あんたは医者か?」
「本職は死神です。お迎えに参りました」