選外佳作「八十五時間後 ひのますみ」
ずく、ずしゃ。
香織はシャベルを泥の面に差し込む。差し込み、すくって、捨てる。辺りは真の暗闇。冷たい雨がレインコートの隙間から染み込んで、下着までぐっしょりと濡らしている。首からさげた懐中電灯が、泥の川になった地面をゆらめかしている。
もうどれだけ、こうしてるんだろう。
香織は闇に浮かぶもうひとつの灯りへ、ゆっくりと近づく。宮地は左手を胸に当て、顔に雨が降りかかるまま天を仰いでいた。休んでいるわけじゃない。彼は祈っている。
香織は声をかけることができない。あのときとちがって。そう――なぜあのときわたしは、中途半端な勇気を出したりしたんだろう。
「ねえ、先生」
帰り支度を終えて立ち上がった宮地に、香織は思い切って声をかけた。九月二十七日水曜日。まだ午後四時だが、あさひ法律事務所はがらんとしている。ここ五十年で最大級の台風がすぐそこまで迫っているのだ。
「なんでしょう、小渕さん」
「先日の事故訴訟で至急の相談があります」
宮地は一瞬動きを止めたが、嫌な顔ひとつせずに「そうですか」と応じてくれた。
「本件の過失相殺の割合ですが」
堅苦しい法律用語を並べながら、香織の胸は締めつけられる。ちがう、本当はこんなこと言いたいんじゃない。わたしは先生が――。
もちろんわかっている。宮地に妻子のいることは。自分が顔を見たこともないその妻と子が、家で彼の帰りを待ちわびていることも。
結局香織は一時間、むなしく宮地を引き留めた。帰宅し、テレビをうつろに眺めていると、速報が入った。S地区で大規模な土砂崩れが発生――。携帯が鳴る。宮地だった。
「帰ると僕の家が――埋まっていました」
三十日土曜日。香織は宮地と共に現場へ同行した。吐瀉物のような分厚い土砂にはばまれ、救助活動は滞っている。災害発生から七十二時間。生存率が極端に下がるという分岐点が過ぎ去っていく。二次災害を避けるため、夜間の作業は行われない。
救助活動を遠くに観ながら、宮地の顔にはある決意がみなぎっている。その横顔に、香織は言っていた。
「先生。わたしにも、手伝わせてください」
宮地は天に祈り続けている。彼はクリスチャンだ。香織はちがう。ただそれだけのちがいが、今はとても遠く感じられる。
「先生」
ようやく言うと、宮地が胸から手を離した。
「ごめん、なさい」
「なぜ謝るんです」
「だってわたしがあのとき引き留めなかったら、先生はたぶん間に合ってた。ご家族を救えたんです。だから」
「だから」
「わたしは恨まれて当然です」
宮地の懐中電灯が、首の下でゆれる。
「いいえ。それは逆です。小渕さんのおかげで、僕は土砂崩れに巻き込まれずにすんだ。小渕さんは命の恩人です」
そんなのちがう。(だから、ありがとう)どうしてそんなに優しいの。それにどうしてまた、祈ることができるの。
「むだです」
「え」
「むだです、祈ったって! だって奥さんはこの下にいるの。地面の中に! 天に祈ったって、神様はなにもしてくれない」
それにたぶんもう――香織はどうにかそれを飲み込み、宮地を見つめる。闇と雨が彼の表情を隠している。
「たしかに、今できるのは掘ることだけです」
やがて宮地はそう言って、シャベルを地面に突き立てた。香織も泥をすくい取る。ただ闇雲に、すくってすくってすくう。二人で何時間もそうしていた。成果はない。体力はとうに限界を超えている。
「あ」
宮地が声を上げた。しゃがみ込み、何かを手に取り泥を払う。いつしか雨は止み、辺りには薄明かりがさしている。香織もそばに寄り、それを見下ろす。写真立ての中から、家族がこちらを見上げていた。香織は初めて宮地の妻子の顔を知った。
宮地の肩が力を失う。写真立てがその手からすべり落ちる。香織は鼻を啜り、太陽へ顔をむける。
朝日を背景に、人影があった。大人と子ども。目を凝らせば、つい先ほど知った女性と男の子の顔だ。
「ねえ、先生!」
背中をたたく。宮地がふりむき、立ち上がった。その目が大きく開かれる。やがて彼は左手を胸に当て、天につぶやいた。
「いい加減にしなさい。この――クソ野郎が」