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選外佳作「カメラと名の付くものはすべて 若奈さちよ」

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作文・エッセイ
結果発表
TO-BE小説工房
第23回 阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「カメラと名の付くものはすべて 若奈さちよ」

たぶん、痔だと思う。素人考えではあるが。

便秘気味でようやく出た便を採取したものだから、痔による出血なのか、腸からの出血であるかどうかはその検査だけでは判定が不能だった。大腸癌であるかどうか詳しい検査が必要になる。絶食し、下剤を飲み、肛門からカメラを入れると聞かされた。度を超した憂鬱に、こんな事なら便の真ん中のところをほじくり返して検体を取れば良かったと本末転倒なことを考えた。

気が重いのはそれだけではない。胃カメラを飲んだことがある私がもっと不安に思うのは、カメラが正常に作動するかどうかということだった。

私は物心つく前から、そう、だから生まれた瞬間からだ。写真を撮られると、必ずといっていいほど奇妙なものが写り込んでいた。父は生まれたばかりの私の写真を何枚も撮影したらしい。その当時はフィルムカメラだったので、現像された写真が戻ってくるのを心待ちにしていたのに、見知らぬ人影が重なっていたり、オレンジの光や白いモヤがかかっていたり、あんまりにもひどい出来にショックを受けたのだとか。まさか心霊写真だと思わず、現像したメーカーに落ち度があるとクレームをつけたという。

私のアルバムは選びに選び抜かれた少数精鋭の写真しか残っていない。基準は私がきれいに写っているかではなく、気味の悪いものが写っていないかどうかである。小学校の遠足で撮った集合写真は捨てるわけにもいかず、封書に入れて保管しているのだが、あまり気持ちのいいものではない。亡霊のようなものが写り込んでいる写真に、クラスメイトは心霊写真だとはしゃぐものもいたが、そのうち私がいるときだけ妙なものが写るとばれてしまい、集合写真を撮るときは休めよといじめにあった。修学旅行にも行けなかったし、卒業アルバムの撮影日も休んだ。私の顔写真は隅っこの方に小さく載ってるだけだが、この写真を撮るにも苦労した。

カメラがデジタル化しても同じ事だった。削除は簡単だが、友人たちと一緒に写ることは遠慮せざるを得なかった。ためしにプリクラでひとり撮影してみたことがある。やはりこれも同じ事だった。気休めではあるが、プリクラは撮影した画像にデコするので、薄気味悪い部分はイラストで隠すことができた。

携帯で動画が撮れるようになると、これも自撮りで確認したが、得体の知れないものが横切っていた。最近ではシャッターを押さなくても、モニターに自分の顔が写っただけで、この世の者とは思えぬ何かが一緒に写り込むようになっていた。

そのうち鏡やガラスに自分の顔が映っただけで心霊現象が起こるのではないかと、自分の顔を見るのも嫌になるくらいだが、不思議なことが起こるのはカメラを通して「自分」をとらえたときだけだった。

その「自分」とは自分の顔や姿だけではない。内蔵だって「自分」である。そう気がついたのは胃カメラで検査をしたときである。先生がモニターで胃の様子を確認していると、「おかしいな。壊れているのか」と慌てだした。私にはモニターが見えなかったが、どういう状況なのかを悟った。病院側はこちらの不手際だから費用はこちらでと、CTでの検査に切り替えた。それもダメだろうとあきらめていたのだが、正常通りの検査ができた。CTはどういう仕組みになっているのだろう。偶然なにも起こらなかったのか、起こらない何らかの理由があったのかはわからない。

大腸癌の検査だってうまくいくとは限らない。だからといって医者に非科学的な理由で他の検査方法を希望するなんて、いえやしない。

この現象について知っている人たちは皆口をそろえて悪霊に取り憑かれているというが、不思議なことに私自身はそのようには思わないし、霊感があるとは思ってない。霊媒師だとか、除霊だとか嘘くさく感じる。

なぜこのような現象が起こってしまうのか。世の中には理由のつかぬ事もあるのだなぁという程度のこと。祟られているのだとすれば、こんなにも平凡にこの年までやってこられないはずだ。

写真はすべて残しておけないわけでもないし。胃カメラが誤作動してもより詳しい検査で別の病気も発見できた。私がカメラに嫌われているのはこの日のためだったと冗談をいえるくらいに、心霊写真は自分の一部。

検査は気が重いが、きっと杞憂に終わるだろう。

だって私はついているんだから。